ナス・エル・ギワン運動
1970年代モロッコの民衆バンド運動。Nass El Ghiwane、Jil Jilala、Lemchaheb、Izenzarenが『ハッサン2世治下の民衆の意識』を音にした。
どんな音か
ナス・エル・ギワン運動は、1970年代前半のカサブランカを中心にモロッコ全国に広がった民衆バンド運動を指す。中心の4バンド、Nass El Ghiwane(1971結成、カサブランカ)、Jil Jilala(1972結成、マラケシュ)、Lemchaheb(1974結成、フェス)、Izenzaren(1974結成、アガディール、アマジグ語)が共通して掲げたのは、西洋ロック機材ではなくモロッコの伝統打楽器を主軸に据える楽器選択だった。編成の中心はゲンブリ(グナーワの3弦低音楽器)、bendir(フレーム・ドラム)、taârija(小型ハンド・ドラム)、そしてバンジョー(西洋の6弦をアラブ調弦に改造)——このバンジョーがNass El Ghiwaneのサウンドの決定的な特徴で、ブルーグラス的な軽さではなく、モロッコ北部の民謡の重い旋律線をクリアに刻む。BPM 90-140、歌詞はダリージャ(モロッコ方言)とアマジグ語で、貧困、独立闘争の記憶、日々の苦しみ、政治的抑圧の暗喩、そしてスーフィズムの祈願を織り交ぜる。西洋ロックとの決定的な違いは、ソロイスト中心ではなく、集団的な声と打楽器のポリリズムで音楽が構築される点だ。
生まれた背景
起点は1971年のカサブランカで、Larbi Batma、Omar Sayed、Boujemaa Hgour、Allal Yaalaの4人がNass El Ghiwane(『民衆(のバンド)』の意)を結成したことだ。彼らは既存のポップ(Abdelhalim Hafez系のエジプトMonophonyや、Umm Kulthumのオーケストラ歌謡)を拒否し、代わりに『aita』の農村声楽、gnawaの儀礼音楽、chaabiの都市大衆音楽、malhounの都市詩を融合させ、それを1970年代のフォーク・ロックの世代エネルギーで駆動した。歌詞は政治的直言を避け、比喩と暗喩(『マハムーマ』『山の羊飼い』『壊れた花瓶』)で読者に読み取らせる構造を取った。この暗喩的な政治性は、ハッサン2世治下の『鉛の年(les années de plomb、1961-99)』の検閲下で表現の自由を確保する唯一の方法だった。アメリカ合衆国のマーティン・スコセッシは彼らを『アフリカのローリング・ストーンズ』と呼び、映画『最後の誘惑』(1988)でNass El Ghiwaneの楽曲を使用した。1974年5月、詩人メンバーのブジェマア・フグール(1946-1974)が交通事故で28歳で死去、モロッコ全体の集団的悲嘆を引き起こした。
聴きどころ
まずゲンブリの低音とバンジョーの高音の対比に耳を澄ませてほしい。この二つの弦楽器が音域の両端を占め、中間をヴィオラや歌が埋める編成が、Nass El Ghiwaneのサウンドの空間感を作っている。次に集団合唱の入り方で、リード歌手が第一連を歌った後、他のメンバー全員が同時に応答コーラスで入る——このコーラスの入りの一瞬が音楽の情動的頂点となる。『Fine Ghadi Biya Khouya』(1974、『兄弟よ、どこへ行くのか』)ではこの構造が最も明瞭で、ブジェマア・フグール生前最後の録音の一つとして特別な重みを持つ。Jil Jilalaはよりスーフィー的で、繰り返し構造(dhikr的)が長時間続く。Lemchahebはより器楽的で、間奏が長い。Izenzarenはアマジグ語のシャウトが特徴で、他の3バンドがダリージャで歌うのと対照的にベルベル民族音楽の疾走感を持ち込む。歌詞の意味が分からなくても、集団合唱の熱量と打楽器のポリリズムだけで、なぜモロッコ人がこれを『我々の音』と呼んだかが体感できる。
発展
1974年5月、Nass El Ghiwaneの詩人メンバー、ブジェマア・フグール(Boujemaa Hgour、1946-1974)がフェスの北50kmのアイン・ラウダで交通事故により28歳で死去した。彼の死はモロッコ全体の集団的悲嘆を引き起こし、Nass El Ghiwaneはメンバー補充を経て活動を継続、以降1980年代半ばまでモロッコ大衆音楽の中心にい続けた。同時期のJil Jilala(『世代の世代』の意)はスーフィーの詩により深く傾斜し、Lemchahebはより器楽的な洗練を、Izenzarenはアマジグ語のロック・フォークとして北アフリカ最初のアマジグ・ロック運動をそれぞれ担った。1975年のグリーン・マーチ以降は歌詞の政治性がより表面化した。
出来事
- 1971: Nass El Ghiwane結成
- 1972: Jil Jilala結成
- 1974: Boujemaa Hgour事故死
- 1974: Lemchaheb / Izenzaren結成
- 1975: グリーン・マーチ
- 2011: 映画『Amoudou』(ドキュメンタリー、監督イッザ・ゲンニ)
派生・影響
gnawa、moroccan-chaabi、aita、malhun、amazigh-musicの5つの伝統を融合した合流点。後のNayda運動(2000年代)、モロッコ・ヒップホップ、そしてrai(アルジェリア)の政治的側面にも直接影響を残した。
音楽的特徴
楽器ゲンブリ(グナーワの3弦低音)、バンディール(フレーム・ドラム)、タブラ、ダラブッカ、ウード、バンジョー(西洋の6弦をアラブ調弦に改造)、時にヴィオラ、集団コーラス
リズムグナーワ由来の6/8複合ビート、シャアビの4/4、時にベルベル民謡の不均等拍子、加速するクライマックス
代表アーティスト
- Jil Jilala
- Izenzaren
- Lemchaheb
代表曲・古典
Chamaa — Jil Jilala (1974)
Fine Ghadi Biya Khouya — Nass El Ghiwane (1974)
Mahmouma — Nass El Ghiwane (1975)
Essiniya — Nass El Ghiwane (1976)
Imighi — Izenzaren (1976)
Laayoune Aynia — Jil Jilala (1976)
Bnat El Bareh — Lemchaheb (1978)
日本との関係
日本でのナス・エル・ギワン認知は極めて低いが、実は重要な思想的接点がある。1970年代のNass El Ghiwaneの音楽社会的位置は、同時期の日本の岡林信康、はっぴいえんど、加川良らのフォーク・シーンと構造的に近い——伝統音楽の民衆的側面を、若い世代のフォーク・ロック的な熱量で駆動し、政治的抑圧の下で暗喩的な批評を成立させる、という共通の課題を負っていた。日本の1970年代フォーク・シーン研究者(平岡正明、小熊英二)がマグレブのシャンソン・エンガジェ(政治的歌謡)に言及する際、Nass El Ghiwaneが遠くの参照点として現れることがある。近年はワールドミュージックの再評価文脈で、Sublime FrequenciesレーベルのNass El Ghiwane関連リイシューが日本の一部レコード店(disc union、El Sur Records)で扱われている。スコセッシ映画『最後の誘惑』を通じて、Nass El Ghiwaneの音を間接的に聴いた日本人リスナーは実は多い。
初めて聴くなら
入り口はNass El Ghiwane『Ya Sah』(1974、既存の00-existing.tsに収録)——集団合唱の熱量が最も明瞭に伝わる代表曲だ。次に『Fine Ghadi Biya Khouya』(1974)、ブジェマア・フグール生前最後期の録音、彼の詩の到達点。『Essiniya』(1976、『皿』)は日常の細部を政治的批評に転換する彼らの手法の典型例。Jil Jilala『Chamaa』(1974、『蝋燭』)、スーフィー的な繰り返しの構造が味わえる。Lemchaheb『Bnat El Bareh』(1978)、器楽的洗練の頂点。Izenzaren『Imighi』(1976)、アマジグ・ロックの初期の代表曲。深夜、あるいは長距離の移動中に、通しで聴くのが向いている。歌詞が分からなくても、集団合唱と打楽器のポリリズムだけで、1970年代モロッコの街角の熱気が伝わってくる。
豆知識
ブジェマア・フグール(Boujemaa Hgour、1946-1974)は、Nass El Ghiwaneの詩人でありシンボルだった。彼の1974年5月の交通事故死(Ain el Aouda近くで28歳)は、モロッコ全体を悲しみに沈めた。当時の国営放送は3日間追悼番組を組み、カサブランカでは10万人が葬儀に集まった。彼の死後、Nass El Ghiwaneは活動を継続したが、多くのファンにとって『本当のNass El Ghiwane』はブジェマア存命の1971-74年に限られる。マーティン・スコセッシは1980年代のインタビューで『世界最高のロック・バンドはNass El Ghiwaneだ、彼らはローリング・ストーンズを超えている』と発言し、これが英語圏での彼らの認知の起点となった。彼は1988年の映画『最後の誘惑(The Last Temptation of Christ)』でNass El Ghiwaneの『Ya Sah』を実際に使用している。フランスの音楽誌『Les Inrockuptibles』は2000年代に彼らの再評価特集を組み、以降ワールドミュージック・シーンでのアクセスが容易になった。
