マルフーン
モロッコ都市部の職人階層が数百年にわたり継承する、ダリージャ口語詩による組曲形式のクラシック声楽。
どんな音か
マルフーン(マルフーン、『節付けされた詩』の意)は、モロッコの旧都市部(フェス、メクネス、マラケシュ、サレ、ラバト)で数百年にわたり職人ギルド、スーフィー修道場、王宮サロンによって継承されてきた古典的な都市声楽だ。編成は男性ソリスト+バックコーラス(rebbâba、応答歌唱)+ウード、ヴィオラ・ダモーレ(kamanja)、カヌーン、時にリュートのハウズィ、そしてタール(フレーム・ドラム)とダラブッカという室内楽的なアンサンブル。詩形はカシーダ(qasida、長篇詩)で、一曲30分〜1時間、複数の楽章(sarba)を経ながらテンポが段階的に加速していく組曲構造を持つ。歌詞は古典アラビア語ではなくダリージャ(モロッコ方言口語)で書かれる——ここがマルフーンをアラブ古典(muwashshah)と区別する決定的な特徴だ。題材は宮廷的な恋愛、預言者ムハンマドへの賛歌、旅と別離、宗教的内省、社会風刺、そして時に酒までを扱う。
生まれた背景
起源は14-16世紀のマグレブ都市部で、アンダルシア追放(1492)以降のイベリア半島からのユダヤ・ムスリム難民が持ち込んだアンダルシア古典音楽(nûba)と、既存のマグレブ声楽の交点で発達した。文学的には14世紀のスーフィー詩人ハミド・アル=カディーやアブド・アル=アズィズ・アル=マグラーウィーの詩篇が初期のレパートリーの土台となる。18-19世紀にはメクネスとフェスに『zawiya』(修道場)を持つcheikh(師匠)たちが弟子への直接口伝で楽曲を守り、家伝の秘匿性が強い伝承体系ができた。20世紀の決定的な人物はメクネス出身のフーサイン・トゥーラリ(1924-1999)で、1928年開局のラジオ・モロッコを通じて国民的認知を得た最初のマルフーン歌手だ。彼の『Chamaa』『Al-Harraz』『Fatma』はマルフーンの現代的な標準レパートリーを定めた。同世代のアブデル=クリム・ドゥッカーリ(フェス)は伝統的なカシーダの現代的再解釈で世代の顔となった。
聴きどころ
まず組曲構造に耳を慣らしてほしい。マルフーンの一曲は約30-60分で、5つの楽章(bughya→dkhoul→ceudda→qsim→ferrach)で構成される。最初の bughya は自由リズムのインストゥルメンタル前奏で、ウードとヴィオラが即興的にモードを提示する。続く dkhoul(『入り』)で歌手が詩の第一連を朗唱、テンポは非常に遅い。中間の ceudda と qsim で徐々に加速し、最終楽章 ferrach(『解放』)でクライマックスに達し、コーラスが円環的な繰り返しに入る。この構造を1時間の映画のような時間感覚として聴くのが正しい聴取だ。次にヴィオラ・ダモーレ(kamanja)の演奏法で、モロッコの奏者は膝の間に楽器を立てて弾く——欧州のヴァイオリンとは全く異なる姿勢で、この姿勢が独特のポルタメントを可能にしている。フーサイン・トゥーラリの歌唱は装飾音(タラウィン)を最小限に抑えて詩の言葉を最も明瞭に伝えるスタイルで、これがマルフーンの『詩を歌う』本質の見本となる。
発展
20世紀の決定的な人物はメクネス出身のフーサイン・トゥーラリ(Houcine Toulali、1924-1999)で、ラジオ・モロッコ(1928開局)を通じて国民的認知を得た。同世代のアブデル=クリム・ドゥッカーリ(Abdelkrim Doukkali、1959-、フェス)は伝統的なレパートリーの再解釈で世代の顔となった。1970-80年代にはマルフーンの若返り運動として『新しいマルフーン(al-malhûn al-jadîd)』が起こり、より短い楽曲構成と現代的な題材が試みられた。近年はフーサイン・トゥーラリ音楽院がフェスに設立され、若い世代への継承体制が整えられている。
出来事
- 14-15c: マグレブ都市部で成立
- 1492: アンダルシア追放、nûba伝統の受容
- 1928: ラジオ・モロッコ開局によるマルフーンの全国放送化
- 1980s: 『新しいマルフーン』運動
- 1999: Houcine Toulali逝去、国葬扱いで送られる
派生・影響
アンダルシア古典音楽(nûba)の子孫で、モロッコン・シャアビ(moroccan-chaabi)、そしてアイータ(aita、農村側のシスター・ジャンル)の親でもある。同名の別ジャンルとしてアルジェリアのchaabi algéroisはマルフーン詩を土台に発達した。
音楽的特徴
楽器ウード、ヴィオラ、カヌーン、リュート、タール、ダラブッカ、男声ソロ+バックコーラス、時に女性コーラス
リズム自由リズムのイスティフバール(前奏)、続いて8拍子のm'sadder(遅い楽章)、加速していく btayhi(中速)、khlas(急速のフィナーレ)
代表アーティスト
- Houcine Toulali
- Abdelkrim Doukkali
代表曲・古典
Chamaa — Houcine Toulali (1970)
Al-Harraz — Houcine Toulali (1975)
Fatma — Houcine Toulali (1980)
Ana Ma Kounta 3aref — Abdelkrim Doukkali (1985)
日本との関係
日本でマルフーンを専門に紹介する場はほぼ存在しない。ワールドミュージック雑誌でも登場頻度は極めて低く、CDも輸入盤の一部しか流通していない。中東イスラーム音楽研究者の間ではその文学的重要性が認識されており、東京外国語大学、大阪大学のアラビア文学研究でマルフーンの詩篇が言及されることがある。日本の類似物を探すなら、平家物語の語り(琵琶法師の平曲)や、能の朗唱に近い——一曲が長く、詩と旋律が不可分に結びつき、言葉の意味を音の抑揚で伝える『語り物』の系譜として比較可能だ。実際、W・B・イェイツがシャン=ノースを能と比較したのと同じ構造で、マルフーンも日本の中世朗詠芸能と原理的に近い場所にある。ただしこの比較を実演する場はまだ日本にはない。
初めて聴くなら
入り口はフーサイン・トゥーラリ『Chamaa』の完全版録音(1970年代のラジオ・モロッコ音源)。約40分の組曲構造を通しで聴くことで、マルフーンの時間感覚が体に入る。次に『Al-Harraz』(1975)、伝統的なマルフーン・レパートリーの中で最も愛されるカシーダの一つ。アブデル=クリム・ドゥッカーリの録音は現代化されたマルフーンの入口として聴きやすい。より学術的にはINEDIT(パリのMaison des Cultures du Monde)のマルフーン集成CD(1990年代)が日本の一部大学図書館にある。深夜、部屋を薄暗くして、他の音を全部消してから、一曲を最初から最後まで通しで聴くのが本来の作法に一番近い。途中で止めて別のことをすると、マルフーンの時間の重量が伝わらない。
豆知識
『マルフーン(malhun)』は文字通りには『節付けされた(詩)』の意だが、この呼称自体がマルフーン成立の秘密を明かしている——古典アラビア語の格式高い詩(fusha)に対して、俗語で書かれ節をつけて歌われる詩、という位置付けだ。同名のジャンルがアルジェリアにも存在し、chaabi algérois(アルジェ・シャアビ)はマルフーン詩を土台に発達した——両者は姉妹関係にある。フーサイン・トゥーラリは1999年に75歳で亡くなり、モロッコ国営放送は特別番組を組んで彼を追悼した。彼の名を冠したフーサイン・トゥーラリ音楽院がフェスに設立され、現代のマルフーン継承の中心機関になっている。マルフーンは2017年にモロッコ政府の推薦でユネスコ無形文化遺産の候補リストに登録され、2023年に正式登録された。
