ラビンドラ・サンギート
詩人ラビンドラナート・タゴールが生涯に書いた2000曲以上の歌の総体。ベンガル文化圏の音楽的背骨。
どんな音か
ラビンドラ・サンギートは、詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)が生涯に書いた2000曲以上の歌の総体だ。「ジャンル」というより、一人の作曲家の作品カタログがそのまま一つのジャンルになった稀な例で、ベンガル文化圏(バングラデシュと西ベンガル)の音楽的背骨を成している。編成はハルモニウム(ふいご式の手風琴)、タブラ、エスラジ(弓弾き弦楽器)、時にシタール、そして独唱または少人数の斉唱。曲の骨格はヒンドゥスターニー古典音楽のラーガに沿うが、その上に、タゴールがベンガル民謡(バウル、キールタン、ボジョン)と、19世紀末にコルカタに流入した英国讃美歌の旋律感覚を混ぜている。1曲は3-8分と短く、詩の一節ごとに旋律が細かく変化する。歌詞は全てベンガル語で、季節、恋、神への愛、独立運動、死といった主題を、詩そのものとしての格を保ったまま歌う。
生まれた背景
タゴールは1861年、コルカタの富裕なブラフモ・サマージ(改革派ヒンドゥー)家庭に生まれた。父デベンドラナート、祖父ドワルカナートは大商人・大地主で、彼はその第14子として、幼少期から家庭内で古典音楽と英語教育の両方を受けた。10代で作曲を始め、17歳のとき兄とイギリスに留学、以後生涯にわたり詩、小説、劇作、絵画、教育、そして作曲を並行して続けた。1913年、詩集『ギーターンジャリ』の英訳がアイルランド詩人 W.B. イェイツの序文つきで発表され、同年11月、アジア人として初のノーベル文学賞を受賞。この受賞がラビンドラ・サンギートを世界に知らしめる契機になった。1905年、英領政府がベンガル分割を発表したときに書かれた抗議歌『Amar Sonar Bangla』(我が黄金のベンガル)は、1971年バングラデシュ独立戦争後に新生バングラデシュの国歌に採用された。同時にインド国歌『Jana Gana Mana』(1911年作曲)もタゴール作で、彼は世界で唯一「二カ国の国歌を書いた作曲家」となった(正確にはスリランカ国歌『Sri Lanka Matha』もタゴールの直接の弟子 Ananda Samarakoon が作曲、間接的にはタゴール系列だと言える)。
聴きどころ
まず歌詞と旋律の一体感に耳を澄ませてほしい。タゴールは自作の詩に自分で旋律を付けた作曲家で、ベンガル語の子音・母音の配列と旋律の音高がほぼ完全に噛み合うように書かれている。この点、詞と旋律を別々の作家に任せる ボリウッド音楽 音楽や、後の バングラ・ポップ とは決定的に違う。次にラーガの使い方で、彼は Bhairavi、Kafi、Bhupali といった北インド古典のラーガを土台にしつつ、途中で異なるラーガに移行することを恐れなかった。これが「タゴール的な自由さ」と呼ばれる。編成では、ハルモニウム1台とタブラ1組による最小限の伴奏が正統だが、シャンティニケタン系の斉唱バージョンも歴史的に重要だ。Debabrata Biswas の独唱は自由な呼吸で詩を語るように歌う代表例、Rezwana Choudhury Bannya の斉唱は集団の声が一つの詩を運ぶ形を伝える。
発展
初期の担い手はタゴール自身と、そのシャンティニケタンの弟子たち(ディネンドラナート・タゴール、シャイレシュ・ドゥット・グプタら)だった。20世紀半ばに Debabrata Biswas(1911-1980)が正規の伝授系統から一歩踏み出した自由な歌唱で、Suchitra Mitra(1924-2011)とともにラビンドラ・サンギートを大衆音楽として広めた。バングラデシュ側では Rezwana Choudhury Bannya(1957-)が現代の代表的歌手として、ダッカを拠点にタゴール歌唱の伝授機関「Shurer Dhara」を運営している。近年は Kabir Suman(ベンガル・シンガーソングライター)、Anushka Shankar、Amit Chaudhuri(英語作家兼歌手)らが、伝統的な様式を守るか、あるいはジャズ・現代編曲に開くかをめぐって議論を続けている。
出来事
- 1877: 最初期の歌の作曲
- 1901: シャンティニケタン学校創設
- 1905: ベンガル分割反対運動で『Amar Sonar Bangla』作曲
- 1913: ノーベル文学賞受賞
- 1941: タゴール死去
- 1971: 『Amar Sonar Bangla』がバングラデシュ国歌に採用
派生・影響
バウル(タゴール自身がバウル詩人ラロン・シャーの影響を公言)、キールタン、ヒンドゥスターニー古典音楽、英国讃美歌の折衷。バングラ・ポップ、バングラ・ロックの旋律的な下地でもある。
音楽的特徴
楽器ハルモニウム、タブラ、エスラジ、シタール、時にピアノ、独唱または少人数コーラス
リズム自由リズム(アーラープ的)、Dadra 6拍子、Kaharwa 8拍子、Teentaal 16拍子、Jhaptaal 10拍子など多様
代表アーティスト
- Rabindranath Tagore
- Debabrata Biswas
- Suchitra Mitra
- Rezwana Choudhury Bannya
代表曲・古典
Anandaloke Mangalaloke — Rabindranath Tagore (1900)
Amar Sonar Bangla — Rabindranath Tagore (1905)
Ekla Chalo Re — Rabindranath Tagore (1905)
Purano Sei Diner Kotha — Suchitra Mitra (1955)
Jodi Tor Dak Shune Keu Na Ase — Debabrata Biswas (1960)
代表曲・現在
Aji Jhoro Jhoro Mukhoro Badoro Dine — Rezwana Choudhury Bannya (1998)
日本との関係
タゴールと日本の関係は極めて深い。1916年、55歳のとき彼は初来日、以後1929年までに合計5回来日し、横浜の三渓園(原三渓邸)、東京、大阪、京都、名古屋を巡った。三渓園には彼が滞在した松風閣が現存し、いまも「タゴール散策路」として整備されている。彼の直接の対話相手は美術史家 岡倉天心(1863-1913)で、1902年、岡倉自身がコルカタのタゴール邸に長期滞在、この交流が『東洋の理想』(1903)の執筆背景となった。タゴールの日本語訳詩集は1913年ノーベル賞受賞直後から出版され始め、1915年には東洋文庫版が既に流通していた。ただし彼が1916年の来日時の講演で日本の帝国主義と国家主義を強く批判したことは、当時の日本世論の一部から反発を受けた(この講演は現在も『Nationalism』として英語で読める)。現代の日本では、東京・目黒のバングラデシュ大使館付属文化センターが毎年5月8日(タゴール誕生日、ベンガル暦の Boishakh 25日)に Rabindra Jayanti を開催、日本在住のベンガル人コミュニティが集まる。日本の音楽家では、佐野元春が2011年の東日本大震災後にタゴール詩『My Fanciful Voyage』を翻訳・朗読するイベントを開いた例がある。
初めて聴くなら
最初の一曲は『Amar Sonar Bangla』(1905)。バングラデシュ国歌の完全版で、タゴール自身の作曲による最も広く知られた楽曲だ。次に『Ekla Chalo Re』(1905)、「もし誰も応えてくれないなら、独りで歩き続けよ」という詩は、2007年映画『Kabuliwala』や2012年映画『Kahaani』で使われて世界に届いた。より器楽的な広がりを聴きたいなら『Anandaloke Mangalaloke』を Rezwana Choudhury Bannya の斉唱で。深夜、ヘッドホンで、ベンガル語の意味は分からなくても詩の呼吸を追いかけるように聴くのが向いている。歌詞は全てタゴール自身の詩なので、英訳詩集『ギーターンジャリ』を横に置いて聴くと、旋律と詩情の対応が見える。
豆知識
タゴールは作曲だけでなく、ラビンドラ・ヌリティヤ(Rabindra Nrityanatya、詩人自身が振付を考えた舞踊劇)も創始した。1913年のノーベル賞賞金の全額をシャンティニケタンの学校運営に投じ、それが現在のヴィシュヴァ・バーラティ大学(1921年正式設立、1951年インド国立大学化)の基礎となった。彼は1930年代、ムッソリーニに直接会って批判、その後ソ連を訪問して社会主義を検討する、といった政治的にも複雑な行動を取っている。彼が日本人歌手 三浦環(1884-1946)と会った記録が残っており、環の来インド公演を歓迎した書簡が現存する。ラビンドラ・サンギートは現在もバングラデシュの著作権が公有領域(Public Domain)にあり、これがバングラデシュ・ポップやロックがタゴール詩を自由に引用できる理由の一つだ。
