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古典

ナズルル・ギティ

Nazrul Geeti

コルカタ / ダッカ / バングラデシュ / インド / 南アジア · 1920〜1942年

別名: Nazrul Sangeet / Songs of Nazrul / নজরুল গীতি

「反逆詩人」カジ・ナズルル・イスラム(1899-1976)が書いた約4000曲。バングラデシュの国民詩人の歌。

どんな音か

ナズルル・ギティは、バングラデシュの国民詩人カジ・ナズルル・イスラム(1899-1976)が生涯に書いたとされる約4000曲の総称だ。ラビンドラ・サンギートと同じくベンガル語の歌だが、タゴールが精緻で内省的な旋律を好んだのに対し、ナズルルはアラビア/ペルシア/ウルドゥーのガザル形式、南インドのカルナータカ音楽、イギリスミュージックホール曲、時にジャズまで貪欲に取り込み、より劇的でリズミカルな歌を書いた。編成はハルモニウム、タブラ、時にサーランギー(弓弾き弦楽器)、独唱または合唱。テンポは Kaharwa 8拍子や Dadra 6拍子の踊れる速度から、ガザル 系の自由リズムまで幅広い。歌詞はイスラム宗教歌(Hamd、Naat)から反英植民地の政治歌、恋歌、児童歌、そしてヒンドゥー女神を讃える歌(Shyama Sangeet)まで、タゴールが手を出さなかった領域を全部覆っている。

生まれた背景

ナズルルは1899年、ベンガル州ブルドワン県(現インド西ベンガル州)チュルリヤ村の貧しいムスリム家庭に生まれた。父親は村のモスクの管理人で、彼は10歳で父を亡くしてから村の劇団やモスクで働きながら学校に通った。第一次世界大戦中の1917年、英領インド軍に志願してカラチに派遣され、そこでペルシア詩を学んだ。1920年、除隊後にコルカタに移り、ジャーナリスト・詩人として活動を開始。決定的な瞬間は1922年10月、雑誌『Dhumketu』(彗星)に載せた反英植民地詩『Anandamoyeer Aagomone』(歓喜の女神の来訪)で、英領政府から扇動罪で告発され、1年間投獄された。獄中でハンガー・ストライキを行い、タゴールが1923年に彼に詩集『Sanchay』を献呈するという異例の応援を送った。1930年代にはコロンビア/HMVレコードのベンガル部門で数百曲を吹き込み、映画『Dhruva Charitra』(1934)で自ら作曲・出演した。1942年、43歳のとき原因不明の神経疾患(近年の研究ではピック病あるいは Wilson 病と推測される)で発語能力と聴力を失い、以後34年間、音楽活動を再開することはなかった。

聴きどころ

まずリズムの多様性に耳を澄ませてほしい。タゴール歌は Kaharwa(8拍子)と Dadra(6拍子)が基本で穏やかだが、ナズルル歌は Teentaal(16拍子)、Ektaal(12拍子)、Jhaptaal(10拍子)といった変則拍子を頻繁に使い、これが「ナズルル的な熱」の源になっている。次に旋律のガザル的な性格で、彼はウルドゥー詩の韻律を意識的にベンガル語に持ち込んだ最初の作曲家で、二連の詩節(couplet)の第二行で必ず高音に上がる「ガザル型」のカーブを多用する。Firoza Begum の1954年 HMV 録音は、ナズルル自身が晩年に近い時期に彼女に伝授した記録として、いまも決定盤とされている。彼女の『Mor Priya Hobe Esho Rani』は ガザル 型の第二行で高音に上がる典型的なフレーズを聴ける。

発展

1972年、独立直後のバングラデシュ政府はナズルルを国賓としてダッカに迎え、1976年にバングラデシュ市民権を付与、同年8月に彼はダッカで死去、ダッカ大学モスク隣接地に葬られた。1976年、政府は彼を正式に「国民詩人」に指定した。歌の伝承側では Firoza Begum(1930-2014)がナズルル・ギティの最大の歌手として20世紀後半を代表し、彼女の1954年の HMV 録音がいまも決定盤とされている。インド側では Manabendra Mukhopadhyay、Anup Ghoshal、Dhirendra Chandra Mitraが並行して伝統を守った。ダッカのナズルル研究所(Nazrul Institute)は約2500曲の楽譜と歌詞を体系的にアーカイブ化している。

出来事

  • 1920: コルカタで詩人デビュー
  • 1922: 『Anandamoyeer Aagomone』で1年投獄
  • 1942: 神経疾患で発語能力喪失
  • 1954: Firoza Begum の HMV 決定盤録音
  • 1972: バングラデシュ市民権付与
  • 1976: 死去、国民詩人指定

派生・影響

ラビンドラ・サンギートと兄弟関係。ガザル、カッワーリー、バウルの折衷を含む。

音楽的特徴

楽器ハルモニウム、タブラ、サーランギー、時にシタール、フルート、独唱または合唱

リズムDadra 6拍子、Kaharwa 8拍子、ガザル系の自由リズム、行進曲風の4/4

代表アーティスト

  • Kazi Nazrul Islamバングラデシュ(英領ベンガル) · 1920年〜1942
  • Firoza Begumバングラデシュ · 1943年〜2014

代表曲・古典

日本との関係

ナズルル・ギティ日本の関係はほぼ皆無で、これは彼のキャリアが1922年の投獄と1942年の発語能力喪失で事実上「見えない20年」に閉じ込められた結果でもある。彼はタゴールとは対照的に日本を訪れておらず、当時の日本の詩壇との交流の記録もない。バングラデシュ独立後(1971以降)に東京・大阪の在日バングラデシュ人コミュニティで彼の歌が歌われる場が少しずつ生まれ、東京・目黒のバングラデシュ大使館付属文化センターでは毎年5月25日(ナズルル誕生日)に Nazrul Jayanti を開催している。ただしタゴール系のイベントに比べると規模は小さい。

初めて聴くなら

最初は『Karar Oi Louho Kopat』(1922、獄中作)、これはナズルル・ギティで最も政治的な楽曲で、反英植民地運動の音楽的シンボルだ。次に Firoza Begum の『Mor Priya Hobe Esho Rani』(1954)、ガザル 型のナズルル歌の完成形。より宗教的な広がりを聴きたいなら『Alga Koro Go Khopar Badhon』を、Firoza Begum の斉唱で。深夜、部屋を暗くして、詩の呼吸を追いかけるように聴くのが向いている。

豆知識

ナズルルの生涯で最も奇妙な事実は、彼が1942年に43歳で発語能力を失った後、34年間ダッカで生きたにもかかわらず、その間に一度も歌を書けなかったことだ。彼の妻 Pramila は彼が病に倒れた4年後の1946年に死去、その後彼は独身で残りの人生を過ごした。1972年、独立直後のバングラデシュ政府はナズルルを国賓としてダッカに迎え、1976年8月29日に彼はダッカで死去した。ダッカ大学構内のモスク隣接地に葬られており、同大学の学生の集会の場として現在も機能している。彼の孫 Kazi Anirban はバングラデシュのミュージシャンで、祖父の楽曲のロック・アレンジで話題を集めた。

影響・派生で結ばれたジャンル

ジャンル関係図1300年代1850年代1870年代1920年代ナズルル・ギティナズルル・ギティカッワーリーカッワーリーガザルガザルラビンドラ・サンギートラビンドラ・サンギート凡例派生影響同系統
凡例
派生影響同系統
ナズルル・ギティを中心とした近傍図。中心と直接結ばれるエッジが強調表示されます。

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