ロシアン・シャンソン
帝政ロシアの都市恋歌と収容所の囚人歌が母体となった、犯罪的世界観と失恋を歌う男性ボーカル歌謡。ミハイル・クルグ、シュフチンスキーが代表格。
どんな音か
ロシアン・シャンソンは、フランスの「シャンソン(歌)」からの命名だが実態は全く異なり、ロシアン・シャンソン(泥棒歌、囚人歌)とロシアン・シャンソンを混ぜたロシア独特の男性ボーカル歌謡ジャンルを指す。中心は語り口の低いバリトン男性ボーカル、アコースティック/エレキ・ギター、ボタン・アコーディオン(バヤン)、時にヴァイオリン。BPMは80-120、旋律はロシア民謡と東欧ジプシー音楽から借りた哀愁を帯びたマイナー・キーが基本だ。歌詞は監獄、恋の裏切り、母への思慕、都市の裏通り、盗人の掟(ヴォル・ヴ・ザコネ)、酒とタバコと拳銃、ソ連時代の労働収容所(ラーゲリ)を主題にする。バーやレストランで生演奏される「聴くための音楽」で、90年代以降はタクシー運転手の車内BGMの代名詞になった。
生まれた背景
系譜は帝政ロシアのロシアン・シャンソン(классический романс)、19世紀後半にオデッサやモスクワの下町で歌われた「泥棒歌」、そしてソ連時代の労働収容所で生まれた「収容所歌」の三つが交差する。ソ連時代は公式には抑圧され、家庭録音テープ(マグニチズダート)や亡命者経由でのみ流通した。ニューヨーク亡命者ウィリー・トカレフは1970年代にブライトンビーチのロシア移民街から本国へ密輸されたテープでシャンソンの一次流通経路になった。決定打は1990年代前半、ソ連崩壊後の犯罪化した社会がこの音楽の担い手と聴き手を大量供給したことで、ミハイル・クルグの『ウラジーミルスキー中央刑務所』(1998)がジャンルの決定的な代表曲となった。
聴きどころ
まず声の低さと語り口に耳を澄ませてほしい。ロシアン・シャンソンの男性ボーカルは、歌うというよりバーで身の上話を聞かせる語り口を保つ。クルグの『ウラジーミルスキー中央刑務所』は3コード進行の単純な曲だが、後半でバヤンが入り、酒場の煙のなかで独白する男の姿がそのまま音になっている。シュフチンスキーの『第三の九月』は逆に歌謡曲寄りで、「9月3日、私はまた燃え尽きた焚き火を思い出す」というリフレインが繰り返される抒情バラードだ。ローゼンバウムの『Gop-stop』はオデッサ由来のロシアン・シャンソンの代表で、明るいリズムで凶悪な内容を歌うブラック・ユーモアが伝統的な特徴だと知って聴くとより深く楽しめる。
発展
2000年、モスクワで24時間シャンソン専門ラジオ局『Радио Шансон』が開局し、ジャンルは制度化された。ミハイル・シュフチンスキー(1948-、オデッサ出身、ロサンゼルスに亡命後帰国)、アレクサンドル・ローゼンバウム(1951-、レニングラード、医師出身)、グリゴリー・レプス(1962-、ソチ)がラジオの主軸を担った。2002年7月1日、ミハイル・クルグは自宅で強盗により射殺され、犯人の一人は2007年に有罪判決を受けたが背後関係は完全には解明されていない。シュフチンスキーの『第三の九月(Третье сентября)』(1993)は2010年代後半にネット・ミームとして再ヴァイラル化し、9月3日はロシア語圏SNSで「シュフチンスキーの日」として毎年ネタになっている。
出来事
- 1990年代前半: シャンソンが公然と商業流通
- 1998: ミハイル・クルグ『ウラジーミルスキー中央刑務所』
- 2000: ラジオ局『Радио Шансон』開局
- 2002-07-01: ミハイル・クルグ射殺
- 2018+: シュフチンスキー『第三の九月』ネットミーム化
派生・影響
ロシアン・バード(ヴィソツキー、オクジャワの詩人歌)とは兄弟関係にあるが、シャンソンは犯罪的世界観と娯楽性を、バードは知識人的な社会批評を担う点で分離した。ジプシー・ロマンス、東欧のバルカン・ブラスとも遠縁。
音楽的特徴
楽器男性バリトン・ボーカル、アコースティック/エレキ・ギター、ボタン・アコーディオン(バヤン)、時にヴァイオリン、シンセ、ドラム
リズム80-120BPM、ワルツ3/4、歌謡的4/4、東欧ジプシー由来の変則的なため、マイナー・キー主体
代表アーティスト
- Alexander Rozenbaum
- Mikhail Shufutinsky
- Willi Tokarev
- Mikhail Krug
- Grigory Leps
代表曲・古典
Nebolshoy Diskoteka na Brayton-Bich — Willi Tokarev (1979)
Gop-stop — Alexander Rozenbaum (1983)
Vals Boston — Alexander Rozenbaum (1987)
Marsh-brosok — Mikhail Shufutinsky (1990)
Tretye Sentyabrya — Mikhail Shufutinsky (1993)
Fraer — Mikhail Krug (1994)
Vladimirsky Central — Mikhail Krug (1998)
日本との関係
初めて聴くなら
最初の一曲はミハイル・クルグ『ウラジーミルスキー中央刑務所』(1998)、これがロシアン・シャンソンの決定版だ。次にシュフチンスキー『第三の九月』(1993)、9月3日にSpotifyで聴くと文化的文脈が上乗せされる。ローゼンバウム『Gop-stop』(1983)はオデッサ系ロシアン・シャンソンの完成形、『Vals Boston』(1987)は同じローゼンバウムの抒情面を体験できる。深夜のバー、あるいはロシア料理店でボルシチを前にしたときに鳴らすのが本来の作法。
豆知識
ミハイル・クルグは2002年7月1日夜、トヴェリ(モスクワ北西の地方都市)の自宅で妻の目の前で強盗により射殺された。犯人は複数人で押し入り金品を奪ったのち発砲、クルグは腹部を撃たれ搬送先の病院で死亡した。2007年に犯人の一人が有罪判決を受けたが、背後関係(注文殺人か、単なる強盗か)は完全には解明されていない。「Радио Шансон」(2000開局のシャンソン専門局)はロシア国内で長年AMラジオのトップ聴取率を維持し、タクシー・食堂・地方の職場BGMの標準チャンネルになっている。若い世代はほぼ聴かず、40歳以上の男性ドライバーが主な聴取者層である点で、日本の演歌AMラジオと構造が似ている。
影響・派生で結ばれたジャンル
同じ時期・同じ地域で生まれた他のジャンル
- ロック・メタル現代ロシアン・ロック
- エレクトロニックロシアン・エレクトロニカ
- ヒップホップ・R&Bロシア語ラップ
- ヒップホップ・R&B現代ロシアン・ラップ
