現代ケルト・フュージョン
Enya、Clannad、Loreena McKennittが1980-90年代に確立した、シンセと弦とゲール語ボーカルの霧のような音世界。
どんな音か
現代ケルト・フュージョンは、アイリッシュ/スコティッシュ・トラッドの旋律とゲール語ボーカルを、多重録音のシンセ・パッド、ハープ、ホイッスル、弦楽オーケストラの上に載せた1980年代以降のスタイルだ。テンポは緩やか(60-90BPM)、リズムは前面に出ず、代わりに数十トラック重ねた声が霧のように空間を満たす。Enyaが1988年『Watermark』で完成させた「一人多重録音の合唱」が音の核で、そこにClannadのアンビエントなキーボード、Loreena McKennittの中東音楽との折衷、Capercaillieのゲール語伝統歌のポップ化が加わって形式が固まった。ケルト・ロックが「ロック側からの融合」だとすれば、こちらは「アンビエント/映画音楽側からの融合」で、Enyaのアルバム売上通算8000万枚超という数字が、このアプローチの商業的到達点を示している。
生まれた背景
起点は1982年のClannad『Theme from Harry's Game』(北アイルランドを舞台にした英ITVドラマの主題歌)で、アイルランド語コーラスとシンセだけで英チャート5位に達したことで「歌詞が分からなくても売れる」ケルト音のマーケットが証明された。同じClannadから独立したEnya(1961-)は1988年『Watermark』の『Orinoco Flow』で世界1500万枚を売り、以降アルバム売上通算8000万枚超に到達した。プロデューサーのNicky Ryanと作詞のRoma Ryan(夫婦)との三位一体で、Enya本人が全ボーカル・パートを一人で数十トラック重ねる「シングル・ヴォイス・クワイア」を発明した。カナダ・ストラットフォード出身のLoreena McKennittは1985年から独立レーベルQuinlan Roadで自主制作を続け、1997年『The Book of Secrets』が世界400万枚に達した。
聴きどころ
Enyaの音の設計を理解するのが早い。彼女は同じフレーズを50-80回自分で重ね録りし、それぞれをわずかに音程を変えることで「一人多重合唱」を作る。だから彼女の声はコーラス集団の合唱と質感が違い、均質でありながら分厚い。次にLoreena McKennittの中東的なドローン導入で、彼女は1990年代に地中海・中東を旅行し、ウードやフレーム・ドラムを楽曲に組み込むようになった。『The Mummers' Dance』のイントロで鳴っているのはトルコ産のフレーム・ドラムだ。Capercaillieの『Coisich a Rùin』は18世紀の織り歌(waulking song、女性たちがツイードを叩いて縮絨する労働歌)で、伝統歌のリズムをシンセ・ベースが下から支える構造がわかりやすい。
発展
スコットランド側からはCapercaillieが1988年『Sidewaulk』以降、ゲール語伝統歌をポップ・レコード化する路線を確立し、1992年『Coisich a Rùin』が18世紀の織り歌(waulking song)としては異例の英チャート39位を記録した。ノルウェーのSecret Garden(Rolf Løvland率いる)は1995年ユーロヴィジョン優勝曲『Nocturne』でこの流れをスカンジナビアからも接続した。1994年のRiverdance初演がこのアンビエントなケルト音を舞台化し、以降ヨガ・スタジオ、スパ、瞑想アプリの標準BGMとして定着した。
出来事
- 1982年: Clannad『Theme from Harry's Game』英5位
- 1988年: Enya『Watermark』(Orinoco Flow)
- 1992年: Capercaillie『Coisich a Rùin』英39位
- 1994年: Riverdance初演
- 1997年: Loreena McKennitt『The Book of Secrets』世界400万枚
派生・影響
ケルト・ロック、アイリッシュ・フォーク・リバイバル、アンビエント/ニューエイジ音楽の交差点。
音楽的特徴
楽器シンセサイザー、ケルティック・ハープ、ティン・ホイッスル、フィドル、ボーカル(多重録音)、弦楽オーケストラ
リズムゆったりした4/4、ワルツ、自由リズムのアンビエント。打楽器は控えめかフレームドラム主体
代表アーティスト
- Capercaillie
- Loreena McKennitt
- Enya
- Secret Garden
代表曲・古典
Orinoco Flow — Enya (1988)
Caribbean Blue — Enya (1991)
Coisich a Rùin — Capercaillie (1992)
The Bonny Swans — Loreena McKennitt (1994)
Nocturne — Secret Garden (1995)
The Mummers' Dance — Loreena McKennitt (1997)
Only Time — Enya (2000)
日本との関係
日本での現代ケルト・フュージョンの受容は、1990年代のヒーリング・ミュージック・ブームと完全に重なっている。Enyaは1988年の『Orinoco Flow』が日本のFMラジオで大量オンエアされて以降、テレビCM(サントリー、資生堂、JR東海など)、ドラマ主題歌、結婚式の入場BGMとして継続的に使用され、日本のリスナーにとってはスターバックスやスーパーマーケットの店内BGMと同じくらい遍在的な存在だ。彼女の『Only Time』(2000)はアメリカ合衆国9.11同時多発テロ後のTV追悼特集で使用されて再ブレイクし、その波が日本にも及んだ。Loreena McKennittも1990年代に日本ツアーを行い、「ヒーリング音楽」の代表格として紹介された。1994年のRiverdanceの日本公演も、このジャンルの音を舞台化して届けた最大の窓口だった。
初めて聴くなら
入り口はEnyaの『Orinoco Flow』(1988)、多重録音ボーカルの構造が最も明快に聴ける。次に『Only Time』(2000)、より抑制された編成でメロディの純度が高い。Loreena McKennittなら『The Mummers' Dance』(1997)、中東的な要素の入った代表作だ。Capercaillieなら『Coisich a Rùin』(1992)、ゲール語のwaulking songがそのままポップに翻訳されている。Secret Gardenの『ノクターン』(1995)はユーロヴィジョン優勝曲で、ケルト音とスカンジナビアの音の折衷を体感できる。深夜、少し暗くした部屋で、ヘッドフォンよりもスピーカーで鳴らすのが音の設計に合う。
豆知識
Enyaは1988年以降ダブリン郊外のマンダーリー・キャッスル(彼女が購入した実在の城)にほぼ引きこもって作曲・録音しており、ライブ公演を1997年を最後にほぼ行っていない。彼女のスタジオはこの城の中に組み込まれており、Nicky Ryanが録音技師、Roma Ryanが作詞、Enyaがボーカルという三人だけで全曲を作る体制が40年続いている。この「一人多重録音」の技術は当時のスタジオ機材の限界に挑戦するものだったので、初期の『Watermark』は毎日18時間、9か月間の録音期間を要した。Loreena McKennittが独立レーベルを維持し続けた理由は、1980年代のメジャー・レーベルが彼女の音楽性を市場適合させようとしたことへの反発だったと本人が語っている。
