モロッコ・ポップ
現代のアラビア語モロッコ大衆ポップ。Saad Lamjarredがアラブ世界最大のスターの一人。
どんな音か
モロッコ・ポップは、2000年代以降のモロッコ発の現代アラビア語ポップスを指し、Saad Lamjarred、Douzi、Ihab Amir、Zouhair Bahaoui、Manalらを中心とする商業的な軸だ。エジプト・レバノン主導の汎アラブ・ポップ(Amr Diab、Elissa)と並走しつつ、モロッコ特有のダリージャ発音、gnawa/chaabiのリズム要素を軽く含む点で兄弟ジャンルから分岐する。BPM 90-115の4/4、シンセ主体のプロダクション、時に伝統打楽器(バンディール、ダラブッカ)のサンプルを織り込む。歌詞は恋愛が中心で、ダリージャと標準アラビア語(fusha)を混ぜ、フランス語のフレーズを挟むことも多い。ミュージック・ビデオはドバイ、パリ、時にモロッコの地方風景を舞台にした華麗なストーリーテリング型が支配的で、YouTubeでの視聴回数10億超の楽曲を複数持つ。エジプト・レバノン発のポップと違い、モロッコ・ポップはフランス市場も同時に狙う二重市場戦略が特徴だ。
生まれた背景
起点は2000年代半ば、レバノン系Rotanaレーベル、UAE系MBCの汎アラブ音楽産業に、モロッコ人アーティストが本格参入し始めた頃だ。Douzi(1985生、Nador出身、本名Abdelhafid Douzi)が2003年頃に活動開始、地中海ポップ寄りの明るい楽曲で汎アラブ市場に届いた。Saad Lamjarred(1985生、ラバト出身)は父Bachir Abdou、母Nezha Regraguiという音楽・演劇一家に生まれ、2007年頃から活動、決定打は2015年12月の『Lm3allem』(『マエストロ』の意)だ。この楽曲はリリース1年でYouTube 5億回、2020年時点で10億回を突破し、アラビア語ポップ史上最大のヒットとなった——スペイン語圏のDespacitoに相当する汎アラビア世界のフェノメナルな成功例だ。楽曲はモロッコ・シャアビのリズムに現代ポップのプロダクションを載せた構造で、モロッコ的なローカル性と汎アラブ的な普遍性を両立させた。
聴きどころ
まずSaad Lamjarredの声質に耳を澄ませてほしい。彼の声は高音域に張りがあり、汎アラブ・ポップの標準的な男性歌手(Amr Diab、Tamer Hosny)より少し軽く、この軽さがモロッコ・ポップの地中海性を作っている。『Lm3allem』のイントロは、シャアビの跳ねるリズムを電子ドラムで刻み、シンセ・ホーンとレバノン風のストリングスが交互に鳴る構造で、モロッコとレバノンの音楽的橋渡しをそのまま形にしている。次にダリージャと標準アラビア語(fusha)の使い分けで、モロッコ・ポップの歌詞はサビをfushaで書き汎アラブ市場に届きやすくし、Aメロ・Bメロをダリージャで書きモロッコの若い聴衆に親密さを届ける、という二重言語戦略を取ることが多い。Manalの『Slay』はよりR&B寄りで、彼女はダリージャ+英語のミックスを試みる新世代の代表だ。ミュージック・ビデオの映像美学もこのジャンルの重要な要素で、しばしば楽曲より映像が先に議論される。
発展
Saad Lamjarredは2013年『Enty』でカムバック、2015年『Lm3allem』以降アラブ世界最大のポップ・スターの位置を占めた。2016年10月のパリでの性的暴行疑惑の逮捕で危機を迎えたが、2018年ホテル・カルロス4世で撮影されたMV『Ghazali』で復帰、以降現在まで活動を続けている。同世代のIhab Amir(2009年ゾ・スーパー・スター優勝)、Zouhair Bahaoui、そして女性歌手ではManal(2010年代後半台頭、Salma Rachidらと並ぶ新世代)、Jenifa Lamjarrouda、Idohがモロッコ・ポップの重要な担い手だ。
出来事
- 2003: Douzi デビュー期
- 2007: Saad Lamjarredソロ・キャリア開始
- 2015: Saad Lamjarred『Lm3allem』(YouTubeで10億回超)
- 2016: Saad Lamjarredのパリ逮捕
- 2018: 『Ghazali』で復帰
- 2020s: Manal、Jenifa Lamjarroudaら女性歌手世代
派生・影響
汎アラブ・ポップ(arabic-pop)の直接の子孫で、フランスのvariété françaiseとレバノンのpop libanaisと兄弟関係。近年はモロッコ・ヒップホップとの越境も進む(ElGrandeTotoとManalのコラボ等)。
音楽的特徴
楽器シンセ、リズムマシン、時にウード、バンディール、ダラブッカ、時にエレクトリック・ギター、ストリングス、ボーカル(男女両方、オートチューン多用)
リズム汎アラブ・ポップの4/4(90-115BPM)、時にシャアビ由来の跳ねるビート、時にレゲトンの3-2クラーベ
代表アーティスト
- Douzi
- Saad Lamjarred
- Manal
代表曲・現在
Mama Loubnan — Douzi (2011)
Enty — Saad Lamjarred (2013)
Denya — Manal (2015)
Lm3allem — Saad Lamjarred (2015)
Ghazali — Saad Lamjarred (2018)
Slay — Manal (2019)
Taj — Manal (2020)
日本との関係
日本でのモロッコ・ポップ認知は Spotify、YouTube を通じて広がりつつあるが、まだ限定的だ。Saad Lamjarredの『Lm3allem』は日本の一部アラビア語学習者、中東文化愛好家の間で知られており、東京外国語大学のアラビア語学科では現代アラビア語ポップの教材として時折使われる。Manalは女性中心の R&B/ポップとして、日本の J-POP女性シンガー(iri、AI)のリスナー層と親和性がある。より広い意味では、モロッコ・ポップはアラブ世界の流通網を通じて日本の中東系レストラン、シーシャバー(水タバコ・バー)のBGMとして間接的に聴かれている——東京の代々木、大久保、大阪のシーシャ店では確実に鳴っている。ドバイ、シャルジャ経由のアラブ世界の音楽市場と日本のポップスは、直接的な交流はまだ薄いが、SNSを介した若年層のクロスオーバーは今後増える可能性がある。
初めて聴くなら
入り口はSaad Lamjarred『Lm3allem』(2015)——アラビア語ポップ史上最大のヒットを一度は聴いておきたい。次に『ガザルi』(2018)、彼の復帰曲。『Enty』(2013)、初期の代表作。Douzi『Mama Loubnan』(2011)、地中海ポップ的な明るさが味わえる。Manal『Slay』(2019)、女性シンガー新世代の代表曲。より広く聴くなら Ihab Amir、Zouhair Bahaoui のヒット曲群を YouTube で追うのがいい。ミュージック・ビデオを見ながら聴くのがモロッコ・ポップの正しい消費形態で、映像と音楽が不可分に結びついている。深夜のドライブ、あるいは午後のカフェで、大音量よりも中音量で流し聴きするのが向いている。
豆知識
『Lm3allem』(2015)はYouTubeで10億回超の再生を記録し、アラビア語楽曲として史上初めてこの数字に到達した。この成功はSaad Lamjarredをアラブ世界最大のポップ・スターに押し上げたが、2016年10月のパリでのフランス人女性への性的暴行疑惑での逮捕で危機を迎えた。彼は複数の告発を受け、フランス、アメリカ合衆国での裁判が現在も継続中だが、モロッコ国内での支持は根強く、活動は継続している。この状況はモロッコ・ポップの複雑さを象徴する——若い世代の女性ファンの支持と、女性への暴力への社会批判の間で、ジャンル全体が引き裂かれている面がある。ManalはSaad Lamjarredの後の世代を代表する女性シンガーで、意識的にダリージャ+英語+フェミニズム的な歌詞を選ぶことで、モロッコ・ポップの次の方向性を示している。モロッコ王室系のSMR(Société Marocaine des Ressources)は Saad Lamjarredのマネジメント初期に関与しており、モロッコ・ポップは王室主導の文化外交の一部でもある。
影響・派生で結ばれたジャンル
同じ時期・同じ地域で生まれた他のジャンル
- ヒップホップ・R&Bモロッコ・ヒップホップ
