グレゴリオ聖歌
ローマ・カトリック教会のラテン語典礼で歌われる単旋律の無伴奏聖歌。中世西方教会音楽の基層をなす。
どんな音か
中世西方カトリック教会の典礼で歌われる、全員が一本の同じ旋律を声をそろえて歌う、無伴奏の宗教歌。歌詞はラテン語の聖書や祈祷文で、その言葉に旋律を付けたものだ。テンポは厳密に決まっておらず、言葉のアクセントとブレスで自然に流れる。歌い手は男声(数名〜30名ほどの修道士)が中心で、1人の独唱から合唱までさまざまだが、女声(尼僧)のバージョンもある。石造りの聖堂がもつ長い残響(4〜8秒)が音そのものの一部で、フレーズとフレーズのあいだの沈黙も、その響きの中に置かれる。記譜は「ネウマ譜」という、現代の五線譜とは違う独自の記号で書かれる。
生まれた背景
6世紀末の教皇グレゴリウス1世が各地の典礼旋律を整理・統一したという伝承から「グレゴリオ聖歌」と呼ばれる。だが実際に編集が進んだのは2世紀後、フランク王国のカロリング朝(8〜9世紀)の王たち——ピピン3世やシャルルマーニュ——が広大な領内に統一された典礼を広めようとした時期だと考えられている。つまり名前の主であるグレゴリウス1世は、この音楽の成立にはほとんど関わっていない。いま私たちが聴くグレゴリオ聖歌の旋律は、実は19世紀の修道士たちが古い写本を解読して「復元」したものだ。中世を通じて伝承の場であったのは修道院で、10世紀前半(922〜926年頃)の聖ガレン修道院の手稿譜(カンタトリウム)は、精緻にネウマが付された最古級の写本の一つとして知られる。ほかにラン、アインジーデルンなどの写本も初期の重要な資料だ。フランスのソレム修道院では、1833年に修道院長ゲランジェ(「ドム」は修道士への敬称)が修道院を再興し、これを機に楽譜の学術的な復元が始まった。口伝で代々受け継がれるうちに揺らいでいた旋律を、古い写本から元の形に確定していく作業である。これが19世紀末から20世紀初頭に実を結び、今日歌われるグレゴリオ聖歌の標準形が確立された。1990年代には、スペインの修道士たちの過去の録音をまとめた再発盤『Chant』が世界で約500〜600万枚を売り上げ、予想外のブームが起きた。
聴きどころ
言葉のアクセントとメロディが完全に同期している。たとえば3音節の「Kyrie(キリエ)」では、真ん中の「ri」に自然なアクセントが来て、メロディもそこで持ち上がる。曲によっては1音節に20音以上のメロディ(メリスマ)が付き、一つの母音が長く引き伸ばされて、言葉が旋律に溶けていくように聞こえる。教会の残響が消えてから次のフレーズが始まるので、沈黙も音楽の一部だ。
発展
9世紀以降フランク王国でネウマ譜が発達し、11世紀のグイド・ダレッツォによる四線譜と階名唱法でレパートリーが固定化された。中世盛期にはオルガヌムなど多声音楽の母胎となり、ノートルダム楽派以降の西洋ポリフォニーの礎を築いた。トリエント公会議(16世紀)で典礼書が標準化されたが、19世紀末ソレム修道院のドン・ゲランジェ、ドン・ポティエ、ドン・モクロー(モクロー)らによる古写本研究で旋律と自由リズム解釈が再生された。第2バチカン公会議(1962-65)により母語典礼が許容されてからは典礼での比重が低下したが、修道院や復古主義的潮流の中で生き続けている。
出来事
- 590: 教皇グレゴリウス1世即位、伝承上のグレゴリオ聖歌体系化
- 800: カロリング朝下でローマ典礼歌が西方教会標準となる
- 1030頃: グイド・ダレッツォが四線譜と階名を整備
- 1903: 教皇ピウス10世自発教令『Tra le sollecitudini』、聖歌の典礼での首位を再確認
- 1962: 第2バチカン公会議開幕、母語典礼導入
- 1994: アンソニー修道院盤『Chant』が世界的ヒット
派生・影響
西洋ポリフォニー音楽全体の母胎となり、ミサ曲・モテット・オルガン音楽の主題素材として近現代まで引用された。20世紀末には『カント』ブームでアンビエント音楽やニューエイジ系作品に取り入れられ、サンプリング素材としてもポピュラー音楽に広まった。
音楽的特徴
楽器男声斉唱(無伴奏)、稀にオルガン伴奏
リズム自由リズム、教会旋法、ネウマ譜、シラビック~メリスマティック
代表アーティスト
- Hildegard von Bingen
- Choeur des Moines de l'Abbaye Saint-Pierre de Solesmes
- Schola Hungarica
- Anonymous 4
代表曲
- Ave Maria (Gregorian) — Choeur des Moines de l'Abbaye Saint-Pierre de Solesmes
- Salve Regina — Choeur des Moines de l'Abbaye Saint-Pierre de Solesmes
- O Virtus Sapientiae — Hildegard von Bingen (1150)
- Columba aspexit — Hildegard von Bingen (1158)
- An English Ladymass — Anonymous 4 (1992)
Veni Creator Spiritus — Choeur des Moines de l'Abbaye Saint-Pierre de Solesmes
日本との関係
初めて聴くなら
1曲なら、ソレム修道院聖歌隊の『Kyrie XI』(ミサ通常文 Orbis factor)。ミサで毎回必ず歌われる定型句(「主よ、あわれみたまえ」)の代表曲で、数分ほどと短い。アルバムなら、世界的ベストセラーとなった定番、Santo Domingo de Silos修道士の『Chant』(1994)。さらに深く浸りたいなら、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの典礼歌集(Schola Hungarica盤)。作曲者の名がほとんど残らないこの世界で、名前と旋律の両方が残る稀有な女性作曲家である。旋律がよりドラマティックで、純粋なグレゴリオ聖歌ではないが、その延長線上にある。
