ハウスはなぜシカゴで踊られたのか
フランキー・ナックルズ、ウェアハウス、そしてドラムマシンから生まれた避難所
3行まとめ
- ハウスは、Frankie KnucklesがニューヨークからシカゴのWarehouseへ移った時点では、まだ名前も音もなかった。
- ディスコを奪われた黒人ゲイ・コミュニティの床に、安いドラムマシンとDJの編集感覚が重なっていく。
- つまりハウスは機材だけで生まれたのではなく、踊る場所を必要としていた人たちのために形を持った音楽だった。
エレクトロニック
あるDJが西へ移る
1977年、フランキー・ナックルズという若いニューヨークのDJが、シカゴのダウンタウン西側にできた新しいクラブ「ウェアハウス(Warehouse)」のメインDJに就いた。彼はマンハッタンのゲイ・サウナ「コンチネンタル・バス」で、のちにパラダイス・ガラージュという伝説的クラブを定義することになるラリー・レヴァンらと並んでターンテーブルを回し、現場で腕を磨いた人物だった。ゴスペル特有の高揚感をディスコに重ね、まるで教会のように人が一体となって踊るフロアの感覚を、体に刻み込んでいた。
ところが1977年のシカゴは、ニューヨークとはまるで違う街だった。ニューヨークの伝説的ディスコ「スタジオ54」のような華やかな有名クラブもなければ、ファッション誌がもてはやすディスコの神話もなく、屋上のロフト・パーティーもない。あるのは、自分たちの居場所を必要としていた黒人ゲイのコミュニティだった。
ウェアハウスは、その「自分たちの部屋」だった。会員制で、客のほとんどは黒人で、ゲイで、深夜0時から翌昼まで開いていた。ナックルズはディスコのレコード——サルソウルなどに代表される、弦が幾重にも重なった華やかな音——をかけたが、そのまま流すのではなく、引き伸ばし、つなぎ直し、同じ盤を2枚使って一番効くパートを延々と繰り返した。彼はまだ「ハウス」を作っていたわけではない。優れたDJが必ずやること、つまり踊り手が求める音にぴたりと寄り添うことをしていただけだ。ハウスがどこで生まれたか——それを言っても、答えの半分にしかならない。本当の問いは、なぜ「ここ」でなければならなかったのか、だ。
ディスコは殺され、シカゴは踊り続けた
1979年7月12日、シカゴのラジオDJスティーヴ・ダールが、野球場コミスキー・パークで爆破騒ぎを起こした。同じ日に2試合続けて行う「ダブルヘッダー」の合間に、ディスコのレコードを山ほど詰めた箱を吹き飛ばしたのだ。いまでは全米的な笑い話として語られる「ディスコ・デモリッション・ナイト」だが、その標的ははっきりしていた。その夜爆破されたレコードの多くは、黒人やゲイ、そしてしばしばラテン系の人々が作り、愛してきた音楽だった。フィールドになだれ込んだ群衆の多くは白人で、郊外に住む、男性だった。ラジオ業界は1年もしないうちにこの空気を読み取り、ディスコはアメリカ合衆国のプレイリストからほとんど一夜で姿を消した。
たいていの街なら、これで話は終わりだった。だがシカゴでは、これがむしろ「自分たちで音楽を作っていい」というお墨付きになった。大手レコード会社が見向きもせず、ポップ・ラジオが敵意を向けるなか、ウェアハウスの客たちは真空のなかで踊り続けた。そんな客を相手にするDJたちは、ニューヨークから次の新譜が届くのを待つのをやめ、自分たちで作り始めた。
それを可能にしたのは、笑ってしまうほど安い機材だった。ローランドが1980年に発売したドラムマシン(自動でリズムを刻む機械)TR-808は、当初まったく売れなかった。叩き出すバスドラム(大太鼓)やスネア(小太鼓)の音が、本物の生ドラムにまるで似ていなかったからだ。だが1983年頃には中古で数百ドルまで値下がりしていた。重要なのは特定の名機ではなく、誰でも買える値段になったことだ。こうしてローランドの機材はシカゴの若者たちの手に渡っていく。それを手にした一人が、シカゴ南部に住む当時20代前半のラリー・ハードだった。彼はローランドのTR-909(のちにハウスの心臓部となるドラムマシン)をシンセサイザー(ジュノ60)につなぎ、のちに「ディープ(深い)・ハウス」と呼ばれることになる、ゆっくりと低く沈み込むような曲を録音した。
1984年、ジャンルに名前がつく
「ハウス」という言葉は、もともとレコード店の棚の表示から広まった。シカゴのプリンターズ・ロウ地区にあったインポーテス・エトセトラ(Importes Etc.)というレコード店が、ウェアハウスでかかる曲を集めた一画を設けた——札には「Warehouse Music」などと記されていたという。やがてこの言葉が、誰からともなく「ハウス」とだけ縮めて呼ばれるようになっていった(縮めたのは店員だったという説もある)。1984年頃には、シカゴのDJたちが互いに「新しいハウスのトラックはどれだ」と尋ね合うようになっていた。このジャンルは、その代表的なレコードがまだほとんどリリースされる前に、ジャンルを生んだクラブの名で呼ばれていたのだ。
そこから2年間、独立系の12インチ盤(シングル用の大判レコード)が爆発的に増えた。トラックス(Trax)やDJインターナショナルといったレーベルが、アパートの一室でわずかな予算をやりくりして盤を出していた。1986年に発表されたマーシャル・ジェファーソンの『Move Your Body』は、ハウスに“国歌”を与えた。賛美歌のように、しつこいほど耳に残るピアノのリフ(短い反復フレーズ)が曲を支える。プロデュースしたのは郵便局で働いていたジェファーソンで、ボーカルはカーティス・マクレインが歌った(初回プレス盤ではクレジットされていない)。曲全体がほんの数時間で録音されたという。ナックルズ自身も、この頃にはパワー・プラントというクラブでプレイしながら、自分の名を冠したレコードを世に出した。ジェイミー・プリンシプルが書き、本人版が1986年にすでに世に出ていた『Your Love』に手を加え、「Frankie Knuckles presents Jamie Principle」名義で1987年にトラックスから出し直したものだ。いま聴くと、踊るための曲でありながら、“恋い焦がれること”を静かに見つめた一曲のように響く。
音楽が街を生き延びた
1987年までにハウスはイギリスの現象になった。1989年にはヨーロッパのポップを動かすエンジンになり、2000年代には世界中で通じる“共通言語”になった。イビザ(スペインにある世界的なクラブの聖地)から韓国のソウルまで、クラブで主流となる電子音楽の基本文法そのものになったのだ。だが、その莫大な金が、ウェアハウス世代に還ってくることはほとんどなかった。トラックス・レコードは、ずさんな経理と、それ以上にひどい契約で悪名高い。創成期の人物の多くは若くして世を去った。ナックルズ自身も2014年、糖尿病の合併症のため59歳で亡くなっている。
ハウスについてよく問われるのは「どこから来たのか」だ。だが、より良い問いは、誰のためのものだったか、だ。ディスコは死んだと告げられ、黒人ゲイのナイトライフは根絶すべき問題だとされ、自分たちのレコードはスタジアムのたき火にくべればいいと扱われた——ハウスは、その人々の音だった。シカゴはその問いに、四つ打ち(一拍ごとに鳴るキックドラム)で答えた。そして、40年にわたって踊り続けた人々で答えた。いまもシカゴの街には、ナックルズを称えて名づけられた通り「フランキー・ナックルズ・ウェイ」があり、その名のもとに踊り手は集まり続ける。シカゴは、いまも答えつづけている。
作者のひとこと
『Your Love』を聴くと、ハウスが曲というより、同じ場所にいる人たちの時間を伸ばすための音楽だったことが分かります。
