新日本音楽
1920年代に宮城道雄が主導した、和楽器で書く新しい芸術音楽の運動。江戸の家元制の外側で「作品」としての邦楽を作った。
どんな音か
生まれた背景
1920年6月、東京・青山会館で宮城道雄(1894-1956)と本居長世が共催した「新日本音楽演奏会」が運動の名を刻んだ瞬間だった。宮城は4歳で失明し、9歳から地唄を学び、11歳で朝鮮半島の仁川に渡り、そこで最初の作品《水の変態》(1909、15歳)を書いた。当時の日本の音楽界は洋楽(西洋クラシック)と邦楽(伝統音楽)が制度的に分断され、東京音楽学校(現・東京藝大)には邦楽科すら存在しなかった。宮城の運動は「和楽器で洋楽器と対等に語れる芸術音楽を作る」という、大正デモクラシー期らしい文化的自尊心の産物であり、蓄音機とレコード産業の勃興、そして日本放送協会(1926-)の存在があってこそ全国流通に乗った。
聴きどころ
発展
1930年代以降、宮城の《瀬音》(1923)、《落葉の踊》(1937)、《さらし風手事》系の展開曲が海外公演やレコードで流通し、1953年フランス放送協会がパリ楽堂で宮城独奏会を録音、翌1954年の東京録音『春の海』(尺八 吉田晴風・箏 宮城道雄)が芸術祭賞を受けた。1956年、宮城は寝台特急「銀河」から転落し急逝、運動は次世代へ引き継がれる。中能島欣一の《三つの断章》(1961)、唯是震一の箏独奏曲群、そして1960年代半ば以降の三木稔や長沢勝俊による本格的な「現代邦楽」が、新日本音楽の直接の子孫として登場した。
出来事
- 1909: 宮城道雄《水の変態》
- 1920: 東京青山会館「新日本音楽演奏会」
- 1929: 宮城道雄《春の海》
- 1936: 東京音楽学校邦楽科創設
- 1954: パリ・東京録音『春の海』
- 1956: 宮城道雄没(急逝)
派生・影響
現代邦楽 (gendai-hogaku)、和楽器と洋楽器の合奏、20絃箏/25絃箏の派生(沢井忠夫・吉村七重)、また韓国 창작국악・中国 民族管弦楽と並ぶ「東アジア芸術音楽近代化」の日本側の柱。
音楽的特徴
楽器十三絃箏、宮城道雄考案の十七絃箏、尺八、三味線(地唄系)、時にヴァイオリンやピアノを併用
リズム西洋2/4・3/4・4/4を軸に、伝統的な自由リズムの序奏を残す序破急型の三部形式
代表アーティスト
- 吉田晴風
- 中能島欣一
- 唯是震一
- 邦楽4人の会
代表曲
- 落葉の踊 — 宮城道雄 (1937)
- 水の変態 — 宮城道雄 (1909)
- 瀬音 — 宮城道雄 (1923)
さらし風手事 — 中能島欣一 (1955)- 三つの断章 — 中能島欣一 (1961)
飛鳥 — 唯是震一 (1975)
詩曲一番 — 唯是震一 (1970)
日本との関係
この項目は日本の音楽そのものの物語だが、教育史から見ても大きな意味を持つ。1936年、東京音楽学校に邦楽科が創設され、宮城道雄が初代教授に就任、以降の邦楽演奏家は「家元」ではなく「大学卒の演奏家」として育つルートが開かれた。この制度化がなかったら現代邦楽も、後のジャズ・尺八(山本邦山)も、映画音楽での和楽器起用も生まれていない。もう一つは1929年《春の海》が翌1930年、フランスの高名なヴァイオリニストRenée Chemet(ルネ・シュメー)と宮城が共演した録音(Nipponophone / ルンバ・クバーナ)で世界流通したことで、日本音楽が「輸出できる芸術音楽」であることを国際的に証明した最初の事例となった点だ。
初めて聴くなら
まず《春の海》(1929)から。宮城道雄の箏と吉田晴風の尺八による1954年の再録音が最も流布しているスタンダード。次に《水の変態》(1909)を通じて、彼が15歳で書いた最初の作品の若い荒々しさを知ると、宮城のキャリア全体が見える。深く入るなら《瀬音》(1923)、《落葉の踊》(1937)を含む「宮城道雄自作自演集」の各種復刻盤へ。中能島欣一《三つの断章》(1961)は運動の到達点として避けられない一枚。
豆知識
宮城道雄は1956年6月25日夜、東京から大阪への出張のため寝台特急「銀河」に乗車中、午前3時頃に刈谷駅付近で車両から転落し、翌朝収容先の病院で急死した(享年62)。事故か発作か自殺か議論が絶えず、内田百閒が随筆『東京日記』で「宮城さんはどうして落ちたか」を書き残している。もう一つ:《春の海》の作曲当時、宮城は正月の宮廷歌会始のラジオ放送のための作品として書き、収入は少なく著作権処理も曖昧だったが、この曲は現在も日本の正月に最も演奏される曲の一つで、宮城が受け取っていない印税は数十億円分に上ると推定されている。
影響・派生で結ばれたジャンル
同じ時期・同じ地域で生まれた他のジャンル
- ポップ演歌
