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伝統・民族

第二次ウィーン楽派

Second Viennese School

ウィーン / オーストリア / 西欧 · 1903〜1935年

別名: Zweite Wiener Schule / Vienna School / Schoenberg Circle / Schoenberg-Berg-Webern

1903-1935のウィーンで、Arnold Schoenberg を師に Alban Berg と Anton Webern が形成した作曲家共同体。無調(1908)から十二音技法(1923)への転回の実質的な現場。

どんな音か

第二次ウィーン楽派の音は、19世紀後期ロマン主義との連続性の中で理解される必要がある。Schoenberg《浄夜 作品4》(1899)は Wagner《トリスタン》と Brahms 弦楽六重奏曲の中間に位置する後期ロマン主義の傑作で、まだ完全に調性の枠内にある。しかし1908年、彼の《弦楽四重奏曲第2番 作品10》第4楽章で歌手が『私は他の惑星の空気を感じる』と歌う瞬間、機能和声の重力が失われて調号が意味を持たなくなる。この転回以降、Schoenberg《3つのピアノ曲 作品11》(1909)、《月に憑かれたピエロ 作品21》(1912)、Berg《3つの管弦楽曲 作品6》(1914)、Webern《6つのバガテル 作品9》(1913)が相次いで書かれ、無調期の音響が確立した。1923年、Schoenberg《ピアノ組曲 作品25》で12音の音列(Reihe)を全体構造の統率原理とする方法が発明され、以降 Webern《交響曲 作品21》(1928)、Berg《ヴァイオリン協奏曲》(1935)で12音期の頂点に達する。

生まれた背景

学派の起点は1904年、Schoenberg が最初の私的弟子として Berg と Webern を採ったことだ。両者は当時19-20歳前後、ウィーンの中産階級の家庭の出で、Schoenberg の音楽院外の私塾に週数回通った。Schoenberg 自身は独学で作曲を学んだ点でウィーン音楽院の伝統から外れた存在で、この『師と二弟子』の三角関係が学派の中核となった。1918年、Schoenberg は『Verein für musikalische Privataufführungen(私的音楽演奏協会)』を設立し、Berg・Webern を含む同時代の作品を私的会員向けに演奏する場を作った。この協会は1918-21年に約113回の演奏会を実施し、事実上の学派の共同発表機構として機能した。1938年ナチのオーストリア併合により Schoenberg はアメリカ合衆国 UCLA へ亡命(1934年以降既に亡命状態)、地理的な学派としては終焉した。

聴きどころ

第一に、無調期(1908-23)と12音期(1923-)の音響の違いに注意。無調期は自由な半音階と表現主義的なドラマを持つが、12音期は音列の反行・逆行・移調の厳密な操作に依拠する構造美の音楽になる。第二に、Sprechstimme(語り歌)の使い方。Schoenberg《月に憑かれたピエロ》(1912)で確立された、歌でもなく朗読でもない中間的な声の技法は、後の Berg《ヴォツェック》(1925)、《ルル》(1937)に受け継がれた。第三に、Webern の極度の音の節約に注目。彼の作品はしばしば全体で1-3分と極端に短く、各音の意味的な重みが最大化される。第四に、Berg の折衷性。Berg は12音を厳密に守るよりも、後期ロマン主義的な情念とマーラー的な広さを保った独自路線で、《ヴァイオリン協奏曲》(1935)の12音音列は長三和音と短三和音を含む古典和声への近接を許す設計になっている。

発展

第二段階は1923年、シェーンベルクが《ピアノ組曲 作品25》で12音の音列(Reihe)を全体構造の統率原理とする方法を最初に発表した瞬間だ。同時期に Webern は《3つの伝統的な韻律による歌曲 作品17》(1924)で12音を書き始め、1928年《交響曲 作品21》で二重カノン・音列反行の構造美を極点まで洗練させた。Berg は12音を独自に緩用し、1925年《ヴォツェック》(初演、Berlin)、1935年《ヴァイオリン協奏曲》『天使の思い出に』(Manon Gropius 追悼)、そして遺作《ルル》で、無調・12音と後期ロマン主義的な情念を折衷する道を選んだ。1935年12月24日、Berg は虫刺されによる敗血症で50歳で急逝、1938年ナチ併合により Schoenberg は米国亡命、Webern はナチ体制下のウィーンに残るも1945年米兵に誤射され死亡した。学派としては1935-45年に地理的・人的に消滅した。

出来事

  • 1904: シェーンベルクの Berg / Webern 弟子入り
  • 1908: シェーンベルク《弦楽四重奏曲第2番 作品10》で無調確立
  • 1912: 《月に憑かれたピエロ 作品21》
  • 1918: 私的演奏会協会(Verein für musikalische Privataufführungen)発足
  • 1923: 《ピアノ組曲 作品25》で12音技法確立
  • 1925: Berg《ヴォツェック》Berlin 初演
  • 1935: Berg 没(50歳、敗血症)
  • 1938: ナチ併合、Schoenberg 米国亡命
  • 1945: Webern 誤射死(61歳)

派生・影響

atonality / musical-expressionism / twelve-tone の実質的な作曲家母体。総音列音楽(total-serialism)・darmstadt-school の直接の親。序列的にはブラームス / マーラー / ワーグナーの正統な子孫と自認していた。

音楽的特徴

楽器室内楽編成(弦楽四重奏、管楽・弦楽混成室内楽、Sprechstimme歌手)、大編成管弦楽、独奏ピアノ

リズム後期ロマン主義由来の複雑な rubato と、後の12音期に至って厳格な律動配分・カノン的な音列反行・逆行操作を導入

代表曲

  • パッサカリア 作品1(Passacaglia)アントン・ウェーベルン (1908)
  • ワルシャワの生き残り 作品46(A Survivor from Warsaw)アルノルト・シェーンベルク (1947)
  • 浄夜(Verklärte Nacht) 作品4アルノルト・シェーンベルク (1899)
  • 室内交響曲第1番 作品9(Kammersymphonie Nr. 1)アルノルト・シェーンベルク (1906)
  • グレの歌(Gurre-Lieder)アルノルト・シェーンベルク (1911)
  • 5つの管弦楽曲 作品10アントン・ウェーベルン (1913)
  • 6つのバガテル 作品9アントン・ウェーベルン (1913)
  • 3つの管弦楽曲 作品6アルバン・ベルク (1914)
  • 抒情組曲(Lyrische Suite)アルバン・ベルク (1926)

日本との関係

日本の作曲界における第二次ウィーン楽派の受容は、1930年代の松平頼則(1907-2001)から始まる。彼は独学で Schoenberg の12音技法を研究し、1930年代後半に日本初の12音作品(《書法変奏》1937)を書いた。戦後は諸井三郎(1903-77)、柴田南雄(1916-96)、入野義朗(1921-80)が『日本第二次ウィーン楽派』として学派を形成し、1946年設立の新作曲派協会でも活動した。武満徹(1930-96)は当初 Berg・Webern に強く影響を受けて出発し、1957年頃から Cage 受容によって独自路線に転回した。松村禎三、湯浅譲二、諸井誠らを含む1950-60年代の日本現代音楽の作曲家は、ほぼ全員が第二次ウィーン楽派の技法的な後裔として自己認識していた。1990年代以降、Wozzeck・Lulu・Moses und Aron などの Berg / Schoenberg のオペラは、東京の新国立劇場・二期会などによる上演を通じて日本の観客にも浸透した。

初めて聴くなら

まず Schoenberg《浄夜 作品4》(1899)から。学派の起点期の後期ロマン主義的な代表作で、Karajan / Berlin Phil の録音がスタンダード。次に《月に憑かれたピエロ 作品21》(1912)を Boulez 指揮の20世紀後半版で。無調期の頂点作品。深く入るなら Berg《ヴォツェック》(1925、Kleiber 指揮のウィーン国立歌劇場録音)、Webern《6つのバガテル 作品9》(1913)、Schoenberg《ワルシャワの生き残り 作品46》(1947、亡命期の傑作)。12音期の入門としては Schoenberg《ピアノ組曲 作品25》(Pollini 録音)、Webern《交響曲 作品21》(Boulez / Berlin Phil)。

豆知識

Berg は1935年12月24日、虫刺されによる敗血症で50歳で急逝した。当時ペニシリンがまだ発見されていなかったための悲劇で、もし彼が10年生きていたら、あるいはダルムシュタット楽派の Boulez・Stockhausen 世代との人的な連続性が確立され、20世紀後半の作曲史はさらに違うものになっていたかもしれない。もう一つ:Webern の死は1945年9月15日、駐留米兵による誤射だった。彼はザルツブルク近郊のミッタージルにいた娘の家で、義理の息子(闇市でのブラック・マーケット活動を米兵に嫌疑された)を訪問中、庭でたばこを吸うため外出したところ、家の外に張り込んでいた米兵が Webern を義理の息子と誤認して発砲した。享年61。もう一つ:Schoenberg は1951年 Los Angeles で急逝、遺言により彼の遺骨は1974年ウィーン中央墓地に移送された。彼の墓には13の音を並べたモニュメントが立っている(『13』は Schoenberg が生涯恐れた数字だった)。

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