フラメンコ・カンテ
フラメンコの歌の枝。パロ(曲種)ごとに違う12拍のコンパスに乗せて、しゃがれ声で絞り出す独唱伝統。
どんな音か
カンテはフラメンコの三本柱のうち歌の枝で、フラメンコを外から見たときに最も分かりやすい「叫び」の部分を担っている。基本はカンタオール一人が椅子に座り、フラメンコ・ギター一本の伴奏、手拍子(パルマ)、そして掛け声(jaleo)の中で歌う編成だ。パロと呼ばれる曲種ごとに違う12拍のコンパスがあり、重く暗いソレア(soleá)は「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12」のうち3,6,8,10,12にアクセントを置く、突き刺すようなシギリージャ(seguiriya)は「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12」を「2+2+3+3+2」の変則で刻む、と、同じ12拍を別の呼吸で歌い分ける。声質は「voz afillá(掠れた声)」と呼ばれる、風邪気味のようなガラガラ声が最高位に置かれ、若い歌手も意図的に喉を潰した掠れを追う。装飾音(メリスマ)は西洋クラシックの前打音とは違い、半音より狭い微分音を音符の間に滑り込ませる。歌詞は3行の短詩(コプラ)か4行のクアルテータで、恋、母、獄舎、死、そしてヒターノ・コミュニティの日常を歌う。
生まれた背景
起源は18世紀末から19世紀初頭のアンダルシア、セビーリャ・カディス・ヘレスを結ぶ三角地帯だ。ここは16世紀にインドから流入したヒターノ(ロマ)、8世紀からのモーロ人(北アフリカのイスラム系)、15世紀の再征服で改宗を強制されたセファルディ・ユダヤ系、そして土着のカスティーリャ系が共存した特異な文化圏で、カンテはその混交の産物として生まれた。19世紀後半のカフェ・カンタンテ(フラメンコ酒場)興隆で舞台音楽として整備され、20世紀前半のドン・アントニオ・チャコン(1869-1929)とラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス(1890-1969)の時代に古典化が進んだ。1922年、詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898-1936)と作曲家マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)がグラナダのアルハンブラで開催した「カンテ・ホンド・コンクール」は、商業化で失われかけていた「深い歌」を保存する試みだったが、皮肉にもその救出運動そのものがフラメンコが既に変質し始めていた事実の証明でもあった。決定打は1969年、20歳のカマロン・デ・ラ・イスラ(サン・フェルナンド生、本名 José Monje Cruz)と当時22歳のパコ・デ・ルシアが組んで録音を始めた時で、二人は1977年までに9枚のアルバムを共同制作し、これらが以後の全カンタオールの教科書になった。カマロンは1979年『La Leyenda del Tiempo』でロルカとオマル・ハイヤームの詩に電子鍵盤とロック・ベースを乗せ、伝統派から強烈な反発を受けつつ「ヌエボ・フラメンコ」の扉を開いた。彼が1992年7月2日に肺癌で41歳没した時、スペインの新聞は「41歳のフラメンコの神が死んだ」と報じ、コート・ダジュール・トーレモリノスのビーチも喪に服した。
聴きどころ
まずコンパスの拍を体で数えてほしい。ソレアなら「1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12」で、太字が強拍。手拍子と足踏みでこの拍を保ちながら、歌手は敢えて拍からずらして入り、遅れて追いつく「タメ」を作る。それが「compás が乗る」瞬間だ。次に語尾のメリスマで、カマロンの『La Leyenda del Tiempo』の冒頭のフレーズ、「El sueño va sobre el tiempo」の「tiempo」の末尾で声が微分音的に4-5階建てで揺れる。西洋耳には「音痴」に聴こえる瞬間があるが、それが cante の商標だ。エンリケ・モレンテ『Omega』はロルカ詩と Leonard Cohen 曲を Lagartija Nick のディストーション・ギターと組み合わせた実験作で、伝統コンパスと歪んだギターが同じ12拍を刻む珍しい構造が味わえる。ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネスの1929年録音『Al Gurugú』は初期蓄音機の雑音の向こうで、コンパスを歌手一人が呼吸で作っている。
発展
20世紀後半の決定打はカマロン・デ・ラ・イスラ(1950-1992)で、パコ・デ・ルシアと組んだ1969-1977年の一連の録音でカンテの標準を書き換え、1979年『La Leyenda del Tiempo』ではロルカとオマル・ハイヤームの詩に電子鍵盤とロック・ベースを乗せてカンテの境界を破った。カマロンが1992年7月2日に肺癌で41歳没した時、スペイン全土が国葬に近い喪に服した。1990年代以降はエンリケ・モレンテ(1942-2010)、ディエゴ・エル・シガーラ(1968-)、ミゲル・ポベーダ(1973-)、そしてエンリケの娘エストレージャ・モレンテ(1980-)がカンテの担い手として世代を継いだ。
出来事
- 1922: ロルカとファリャがグラナダでカンテ・ホンド・コンクール開催
- 1929: ラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス「Al Gurugú」録音
- 1969: カマロンとパコの初共演盤『Al Verte las Flores Lloran』
- 1979: カマロン『La Leyenda del Tiempo』
- 1992: カマロン死去
- 1996: エンリケ・モレンテ『Omega』
- 2010: UNESCO無形文化遺産登録(バイレ・トケと合わせて)
派生・影響
フラメンコの三枝の一つ、ヌエボ・フラメンコとロサリア世代のポップ・フラメンコに直接繋がる。コプラの旋律の一部もカンテから借用されている。
音楽的特徴
楽器独唱、時にフラメンコ・ギターとパルマ(手拍子)の伴奏のみ
リズム12拍のコンパス(soleá、bulería、seguiriya)、4拍のtangos flamencos、自由リズムのカンテ・ホンド
代表アーティスト
- La Niña de los Peines
- Enrique Morente
- Diego el Cigala
- Miguel Poveda
- Estrella Morente
代表曲・古典
Al Gurugú — La Niña de los Peines (1929)
Omega — Enrique Morente (1996)
Aunque es de noche — Enrique Morente (1999)
Lágrimas Negras — Diego el Cigala (2003)
代表曲・現在
Volver — Estrella Morente (2006)
Coplas del Querer — Miguel Poveda (2010)
日本との関係
日本のカンテ受容は世界的にも特別に深い。1963年設立の「日本フラメンコ協会」は非スペイン圏で最大級の組織で、東京・大阪・京都・名古屋にプロのタブラオが常設されている(東京・銀座の「エル・フラメンコ」は1967年開店、パコ・デ・ルシアとカマロンも来演した)。カンテそのものを歌う日本人カンタオーラも育っており、小松原庸子、鍵田真由美、片桐ユズル、そして近年の新井英一(在日ヒターノ系ではないが独自にカンテを日本語で解釈)らが活動している。パコ・デ・ルシアは1970年代以降ほぼ毎年来日、東京文化会館・NHKホール公演がフラメンコ・トケの日本流通の中心となり、その裏でカマロンとエンリケ・モレンテのアルバムが輸入盤店に並んだ。エストレージャ・モレンテは2018-19年に東京公演を敢行、映画『Volver』を観てから彼女に辿り着いた層と、伝統派を追ってきた層の両方を集めた。
初めて聴くなら
最初の一枚はカマロン・デ・ラ・イスラ『La Leyenda del Tiempo』(1979)。ロックとカンテが同じ盤に同居した歴史的転換点で、伝統コンパスとロルカ詩とロック・ベースが全編を貫く。次に彼の1975年『En Vivo』(実況録音)で、パコ・デ・ルシアのギター一本と対峙するカンタオールの原型が体感できる。エンリケ・モレンテ『Omega』(1996)はカンテを現代音楽と接続する実験のピークだ。歴史的な入り口が必要ならラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス『Al Gurugú』(1929)、蓄音機時代のカンテがそのまま聴ける。深夜、部屋を暗くし、一曲を歌い終わるまで動かないで聴くのが本来の作法に一番近い。
豆知識
「カンテ・ホンド(深い歌)」と「カンテ・チーコ(小さい歌)」の区別は1922年のコンクールで初めて概念化された近代的な二分法で、伝統派の内部からも「そんな区別はなかった」という声がある。カマロン・デ・ラ・イスラの本名 José Monje Cruz の「Camarón(小エビ)」は幼少時の白い肌と細い体型からのあだ名で、彼が16歳の時に既に定着していた。エンリケ・モレンテの『Omega』(1996)はリリース時に伝統派から「フラメンコの死」と非難されたが、20年経って再評価され、2016年スペイン王立芸術院はモレンテに死後名誉会員の称号を贈った。日本のフラメンコ人口はスペイン本国を除いて世界最大で、日本人がスペインの Fundación Cristina Heeren de Arte フラメンコ(セビーリャ)などのカンテ学校で学ぶルートが定着している。
