カルナーティック信愛歌
南インド・カルナーティック古典音楽体系の中で発達した、神への信愛を主題とする声楽伝統。
どんな音か
カルナーティック信愛歌(バジャンやキールタナと呼ばれる)の音は、鼻腔と胸腔の両方を使った丸みのある声が中心にある。テンポはゆったりと始まり、タンブーラ(4弦の持続音楽器)が低くドローンを鳴らすなか、ヴォーカルが一つのラーガ(音階様式)の輪郭をゆっくりなぞっていく。姉妹的な声楽ジャンルである「クリティ」よりも構造が緩やかで、演奏者が即興的に言葉を繰り返したり、信徒の合唱を誘導したりする余地が大きい。M.S.スッブラクシュミの声はその代表例で、低音域の安定感と高音域に昇るときの開放感が、宗教的な高揚感と直結している。録音では弦とパーカッションが最小限に抑えられ、声の倍音が部屋に広がる感触がある。
生まれた背景
カルナーティック信愛歌の基層は、7〜9世紀に南インドを巡礼したナーヤンマール(シヴァへの詩人聖者)とアールヴァール(ヴィシュヌへの詩人聖者)にさかのぼる。彼らがタミル語で残した詩は今日も歌われ続けており、「声で神に近づく」という信愛(バクティ)運動の核がそのまま形式に刻み込まれている。17〜18世紀にプランダラダーサやティヤーガラージャらが体系化を進め、寺院音楽と家庭の礼拝音楽として定着した。植民地期に入るとレコードと放送が普及し、M.S.スッブラクシュミ(1916〜2004年)の録音が20世紀を通じて信愛歌の標準的音像を決定づけた。
聴きどころ
タンブーラのドローンがどの音に固定されているかを最初に確認する。その「根音」からヴォーカルがどれだけ離れ、またどれだけ戻ってくるかを追うことで、ラーガの引力が体感できる。M.S.スッブラクシュミの『Bhaja Govindam』(1949年)では、サンスクリット語の八世紀の哲学詩シャンカラの言葉が旋律に乗るが、言葉の区切りと音楽的フレーズの区切りが微妙にずれる瞬間に注目してほしい。そこに即興的な自由度が宿っている。
発展
18-19世紀タンジョール周辺で三聖がレパートリーの基礎を築き、20世紀のM.S.スッブラクシュミ、センマンガリ・スリーニヴァサ・アイヤルらが信愛声楽の現代演奏様式を確立した。シャンカラチャーリャ系・シュリー・ヴィシュヌ・サハスラナーマ・パラーヤナ等の宗教歌唱運動と結合し、米英タミル・コミュニティでも継承される。
出来事
- 1767: ティヤーガラージャ生誕
- 1846: 三聖の主要作品ほぼ完成
- 1949: M.S.スッブラクシュミ『Bhaja Govindam』録音
- 1966: チェンナイ音楽アカデミー国際カルナーティック会議
派生・影響
タミル映画音楽、現代インドゴスペル(タミル系)、サウンダリャ・ラハリ朗誦運動など南インド宗教文化の広範な領域に影響を残す。
音楽的特徴
楽器声、ヴィオリン、ムリダンガ、ガタム、カンジーラ、タンブーラ
リズムラーガ・ターラ体系、即興、サンスクリット・テルグ・タミル詩
代表曲
- Bhaja Govindam — M. S. Subbulakshmi (1949)
- Vishnu Sahasranamam — M. S. Subbulakshmi (1962)
日本との関係
インド古典音楽全般として「ヨガや瞑想」との親和性からニューエイジ的文脈で日本に輸入されたことはあったが、カルナーティック信愛歌が独立したジャンルとして認知されている場面は少ない。M.S.スッブラクシュミが1966年の国連総会で歌ったことは国際的に知られており、NHK-FMなどのワールドミュージック枠でときおり紹介されてきた程度である。
初めて聴くなら
M.S.スッブラクシュミの『Bhaja Govindam』(1949年)から始めるのが順当。静かに集中できる夜の時間に、目を閉じてドローン音と声だけに耳を向けてみると、旋律が繰り返しながら少しずつ変化していく過程がつかみやすい。続けて『Vishnu Sahasranamam』(1962年)を聴くと、同じ歌い手がより長い詠唱形式でどう声を保つかが対比できる。
