カネカ
ニューカレドニアで1986年、Kanak 独立運動と歩調を合わせて成立した太平洋抵抗ポップ。
どんな音か
音の中心はエレキギター・ベース・ドラムキットの標準ロック・レゲエ編成に、Kanak 伝統の pilou(儀礼舞踊)由来の割り竹打楽器 pil-pil、バンブー・スタンプ管(地面に立てて叩く竹筒)、シェイカー、そして時にビリンバウ類が加わる混成編成である。歌唱言語は Kanak 諸言語(Drehu、Nengone、Paicî、Ajië、Xârâcùù など約30言語)のいずれか一つが選ばれ、フランス語は原則として避けられる — この言語選択自体がカネカの政治的中核である。旋律はメラネシア教会讃美歌の合唱系譜(19世紀のプロテスタント宣教師由来のハーモニー・スタイル)と、汎太平洋レゲエ(1970-80年代の Bob Marley 受容が Vanuatu、Fiji、Solomon Islands 経由で伝播した)、そして時にフレンチ・ロックのフックが混じる。テンポは中庸(90-105BPM)、ワン・ドロップまたは半分速い4/4が基本拍。歌詞テーマは Kanak アイデンティティ、土地権、独立運動、Ouvéa 事件の記憶、若者への呼びかけが典型。
生まれた背景
1970年代、ニューカレドニアの Kanak コミュニティは Jean-Marie Tjibaou(1936-89、後の FLNKS 議長、フランス文化省勤務経験を持つ人類学者)の主導する文化復興運動の一環として、それまで西欧化と土地収奪の中で衰退していた Kanak 伝統音楽と舞踊の再評価を始めた。1975年 Melanesia 2000 文化フェスティバル(ヌメアで開催、Kanak 主催の最初の大規模文化イベント、Tjibaou と Pierre Bouchet が組織)が音楽的再結集の起点。1984年 FLNKS(社会主義カナク民族解放戦線)結成、1985年 FLNKS 幹部 Éloi Machoro が仏憲兵に射殺、1986年 Kanak 側の政治的疎外感が最高潮に達した時期に「自分たちの現代音楽」の必要性が共有され、1986年12月ヒエンゲンで開催された Kanak 代表者会議で音楽用語「kaneka」が正式命名された。「kaneka」は「Kanak」の子音転置による芸術用語化で、植民地時代の蔑称「canaque」を Kanak 側が「Kanak」として肯定的に奪還した経緯をさらに一段進めた命名である。同年前後に結成された Bwanjep(Hienghène 拠点)、Mexem(Ouvéa 出身)、Vamaley(Lifou 出身)が初期の主要バンド、Marcel Ninnin と Kanak Association Musicale(KAM)がフェス制度を組織化した。1988年5月の Ouvéa 洞窟人質事件(仏軍による Kanak 独立派活動家19名の殺害)がジャンルの政治的核となった。1988年 Matignon 合意で政治的緊張が一時的に和らぎ、1998年 Nouméa 合意で文化復興予算が本格化、Kanak 文化庁(ADCK)と Tjibaou 文化センター(1998開館、Renzo Piano 設計)が Fest'Napuan(1996-)、Fest'Popaï(1999-)、Fest'カネカ(2002-)を通じてジャンルを制度支援した。2018-21年の3回の独立住民投票期には、Nodeak、Alois Yaris ら第三世代が政治的発言を歌詞に取り込んだ。
聴きどころ
Bwanjep『Hienghène』(1987)の冒頭で pilou 由来の割り竹打楽器の乾いた高音と、エレキギターのアルペジオが同時に鳴る瞬間 — Kanak 伝統音楽と西洋ポピュラー音楽が対等な音場で融合する瞬間が、ジャンル成立の宣言として耳に飛び込んでくる。歌唱言語(Paicî)の音節構造にも注意すると、Kanak 諸言語特有の母音優位のリズム感覚がメロディに直接反映していることがわかる。Mexem『Ouvéa』(1989)の追悼歌ではコーラス応答の重層性が Kanak 伝統集会歌のスタイルを継承していると聴こえる — 個人主導のリード・ボーカルに対して複数のコーラスが応答する形式が、リフー島の伝統集会「gam」の音楽的構造を電化編成に移し替えたもの。OK! Ryos『Passe Passe』(2005)以降の第二世代は、フレンチ・ポップのメロディック・フックとレゲエ・ワン・ドロップを Drehu 語で歌う洗練された路線で、汎太平洋以外(仏本土、レユニオン、モーリシャス)への輸出可能性を実現した。
発展
1988年 Matignon 合意でカレドニアの政治的緊張が一時的に和らぐと、カネカは Kanak 側の文化的アイデンティティ音楽として制度化された。1998年 Nouméa 合意により文化復興予算が本格化、Kanak 文化庁(ADCK)と Tjibaou 文化センター(1998開館、Renzo Piano 設計)がフェス Fest'Napuan(1996-)、Fest'Popaï(1999-)、Fest'Kaneka(2002-)を通じてジャンルを制度支援した。2000年代に OK! Ryos(1993結成、Lifou 島出身)が汎太平洋シーンに届く洗練されたカネカ・ポップを確立、2010年代以降は Nodeak、Vaki Kanak、Alois Yaris が2020-21年の独立住民投票の政治的文脈で新しい歌詞層を書き加えた。
出来事
- 1975: Melanesia 2000 フェスティバル(Kanak 音楽再結集の起点)
- 1986: ヒエンゲンで Kanak 代表者会議、「kaneka」命名
- 1988: Ouvéa 事件、Matignon 合意
- 1996: Fest'Napuan 開始(汎太平洋音楽祭)
- 1998: Tjibaou 文化センター開館、Nouméa 合意
- 2018-21: 3回の独立住民投票、カネカ第三世代が政治的発言を継承
派生・影響
汎太平洋パシフィック・レゲエ(Vanuatu、Fiji、Papua New Guinea との相互影響)、Nouvelle-Calédonie のフレンチ・ロック側(Nouvelle-Calédonie の非Kanak層)への流出。
音楽的特徴
楽器エレキギター、ベース、ドラム、バンブー・スタンプ管、割り竹、シェイカー、Kanak 諸言語ボーカル、コーラス
リズムレゲエのワン・ドロップまたはロックの4/4、Kanak 伝統の pilou 舞踊のシンコペーションを内声に、コーラス応答
代表アーティスト
- Marcel Ninnin
- Bwanjep
- Mexem
- Vamaley
- OK! Ryos
- Nodeak
- Alois Yaris
代表曲
Hienghène — Bwanjep (1987)
Ouvéa (Song for the Fallen) — Mexem (1989)
Drehu Song — Vamaley (1991)
その後の代表曲
- Passe Passe — OK! Ryos (2005)
Nöca — Alois Yaris (2016)
Kaneky — Nodeak (2019)
日本との関係
日本におけるカネカの認知は極めて限定的で、大学のオセアニア研究者(東京外国語大学の吉岡政徳、大阪大学の栗田博之)による論文と、2007年の東京都写真美術館「オセアニアの音」特別展(小島美子監修)での短い展示程度。実際の商業音楽流通は皆無に近く、OK! Ryos や Nodeak の音源が日本のワールドミュージック店で流通した例はほぼない。1998年開館の Tjibaou 文化センター(Renzo Piano 設計)が2000年代に東京国立近代美術館などで建築展として紹介された際、音楽プログラムとしてカネカに触れる副次的な言及があった程度。日本の Kanak 独立運動理解は、フランス政治史あるいは太平洋植民地史の一部としてのみ扱われることが多く、カネカがその音楽的表現であるという理解は民族音楽学者以外にはほぼ伝わっていない。
初めて聴くなら
最初の一曲は OK! Ryos『Passe Passe』(2005)、汎太平洋レゲエとカネカが最も洗練された形で融合しており初心者にも入りやすい。次に Bwanjep『Hienghène』(1987)で初期スタイルの原点、Mexem『Ouvéa』(1989)でジャンルの政治的核となった追悼歌、そして Alois Yaris『Nöca』(2016)で現代のソロ・カネカへ。アルバムとしては OK! Ryos『OK! Ryos』(2000年代前半)、Bwanjep 1980-90年代のオリジナル録音のリマスター、そして Fest'カネカ のライブ・コンピレーションを推す。書籍としては Denis Monnerie『Kanak Music and カネカ: Cultural Sovereignty in New Caledonia』(2005、SUP)がジャンルの学術的入門書、映像としてはドキュメンタリー『カネカ, la musique de la revendication kanak』(2012)。
豆知識
「kaneka」の命名は1986年12月ヒエンゲンでの Kanak 代表者会議の際、Marcel Ninnin を含む十数人の音楽家と文化活動家が数日間の議論の末に合意した造語である。当初は「Kanak」または「Kanaky」を候補としたが、「Kanak」は民族名そのもので音楽ジャンル名として使いにくく、「Kanaky」は独立後の国名候補として政治的過負荷が大きいという理由で、両方を折衷した「kaneka」が採用された。1988年5月の Ouvéa 洞窟人質事件(仏軍が Kanak 独立派活動家19名を殺害、うち2名は投降後の処刑と報告された)は、事件の1週間後に Matignon 合意への道が開かれた点で政治的にはターニング・ポイントとなったが、Kanak 側の音楽的記憶においては未解決のトラウマとして継続的に歌詞化されてきた。2018年、2020年、2021年の3回の独立住民投票では独立が僅差または大差で否決されたが、この期間のカネカは Nodeak、Alois Yaris らを通じて若年 Kanak 有権者の政治的表現媒体として機能した。
