アルプス・ヨーデル
アルプス地方の牛追い歌に起源を持つ、胸声と裏声を高速で往復する無伴奏声楽の伝統。
どんな音か
アルプス・ヨーデルは、胸声(モーダル)と裏声(ファルセット)を1秒に数回のペースで往復させる歌唱技法だ。谷から谷へ声が届くように発達したため、無伴奏でも遠くまで届く鋭い倍音を含み、無歌詞の音節(dio-la-dio-hodl-l'yo)だけで歌う純粋なヨーデル、歌詞と物語を持つアルプス・ヨーデルlied(ヨーデル歌)、そして牛の呼び戻し歌『ラン・デ・ヴァッシュ(Ranz des Vaches)』の三系統に分かれる。演奏形態は独唱、無伴奏三重唱・四重唱、あるいはアコーディオン、アルプホルン、ハックブレット(打弦楽器)を伴う編成まで幅がある。スイス中央部、オーストリア、南ドイツ(バイエルン)、チロル全域で発達し、実質的にアルプス山地全域の共有財産だ。
生まれた背景
起源は数百年前の高地牧畜(アルプアウフツーク)にあり、夏に牛を高地牧草地に上げた牧童たちが谷間で連絡を取り合うために使った呼び声から発達した。牧童は牛を呼び戻すために特定の旋律『ラン・デ・ヴァッシュ』を歌い、この歌は牛の耳に届くと帰路を促す条件反射の役割まで果たした。1830年頃までは公式な音楽ではなく、宗教的な聖歌隊音楽の対極にある「野の音」だったが、19世紀後半のスイス国民国家形成期にアルペン・トラッハト(民族衣装)と共に国民文化の象徴として制度化された。1910年前後にJodlerklub(ヨーデル・クラブ)が全国各地に設立され、無伴奏三重唱・四重唱の形式が固まり、1924年にはスイス連邦ヨーデル協会が組織されて3年ごとの全国大会Eidgenössisches Jodlerfestが始まった。
聴きどころ
まず胸声と裏声の切り替えの速度に耳を澄ませてほしい。優れたヨーデル歌手は1秒に4-5回、音域を1オクターブ以上跳躍させる。次に無伴奏三重唱の場合、上声部が旋律を運び、中声部が3度下でハモり、低声部が根音を刻む3声のハーモニーが基本設計だ。Jodlerklub Wiesenbergの録音は男声三重唱の標準形なので、この3声の重なりが最も明快に聴ける。バイエルンのFranzl Langの歌唱はソロで、跳躍の速度と装飾の細かさに寄せた技術的曲芸の側面が強い。Erika Stuckyの現代的な解釈では、伝統的なヨーデルにジャズ・ハーモニーやノイズが乗るので、伝統との差分として聴くのがわかりやすい。
発展
1910年前後にJodlerklub(ヨーデル・クラブ)が全国各地に設立され、無伴奏三重唱・四重唱の形式が固まった。1924年にはEidgenössischer Jodlerverband(スイス連邦ヨーデル協会)が組織され、以降3年ごとに全国大会Eidgenössisches Jodlerfestが開催されている。1935年頃、バイエルンのFranzl Lang(1930-2015)がラジオ・ドイツ全国で人気を得て「ヨーデル王(Königsjodler)」と呼ばれ、非スイス圏でもアルプス・ヨーデルの代表格となった。近年はErika Stucky(スイス、1962-)のようなアヴァンギャルド/ジャズ側からの解体的アプローチも現れている。
出来事
- 1830年頃: Ranz des Vachesの旋律が『スイス的なるもの』の象徴として楽譜化される
- 1910年頃: 全国のJodlerklubが組織化される
- 1924年: スイス連邦ヨーデル協会設立
- 1935年: Franzl Langがラジオで全独人気を獲得
派生・影響
スイス民俗音楽(Schweizer Volksmusik)の声楽側を構成し、アルプホルン音楽との共演形式も一般的。米カントリー(Jimmie Rodgers 1927年『Blue Yodel』)を経由してカントリー音楽の一部にもなった。
音楽的特徴
楽器無伴奏声、または声+アコーディオン+アルプホルン+ハックブレット(打弦楽器)
リズム自由リズムの牧童歌と、3/4のワルツや2/4のポルカに乗せた歌唱曲の二系統
代表アーティスト
- Franzl Lang
- Jodlerklub Wiesenberg
- Erika Stucky
- Nadja Räss
代表曲・古典
Der fröhliche Wanderer — Franzl Lang (1956)
Kufsteinlied — Franzl Lang (1965)
Naturjodel — Jodlerklub Wiesenberg (1985)
Vo Luzärn uf Wäggis zue — Jodlerklub Wiesenberg (1990)
代表曲・現在
Suisse — Erika Stucky (2002)
Jutz — Nadja Räss (2010)
日本との関係
日本ではアルプス・ヨーデルは長らく「スイスの牧歌的風景」の代名詞として扱われてきた。NHK BSプレミアムの旅番組(『世界ふれあい街歩き』『世界の車窓から』)がスイス回でBGMとしてヨーデルを使うのが定番で、視聴者の多くにとって「アルプス=ヨーデル」のイメージ結合が刷り込まれている。ハイジ(アニメ『アルプスの少女ハイジ』1974)のオープニング『おしえて』の一節でヨーデル的な発声が使われたことも、日本の子供時代の記憶にヨーデルを植え付けた。国内で本格的にアルプス・ヨーデルを歌うのはごく少数だが、原田直之や後藤ミナのように民謡歌手からアプローチする例がある。ジロー・ジャッキーニ(スイス人歌手、日本在住)が2000年代に日本で少数のワークショップを開いている。
初めて聴くなら
入り口はJodlerklub Wiesenbergの『Naturjodel』。歌詞のない純粋なヨーデルで、男声三重唱の型が最も明快に聴ける。次にFranzl Langの『Der fröhliche Wanderer』(1956)、これはドイツ語圏の大衆娯楽としてのヨーデルの標準形だ。より現代的なアプローチを聴きたければNadja Rässの『Jutz』(2010)、伝統的な様式を保ちつつスタジオ録音の距離感を取り込んでいる。夜に一人で聴くというより、山や広い空間を想像しながらスピーカーで鳴らすのが音の設計に合う。
