ジャズの揺りかごとしてのニューオリンズ
クレオールの混血都市が生んだ20世紀最大の発明
ジャズブルース・カントリー
なぜニューオリンズだったのか
ジャズはアメリカ合衆国南部のニューオリンズで生まれた、と教科書には書いてある。だが、なぜその街だったのか?
答えはシンプルだ。19世紀のニューオリンズは、アメリカ合衆国国内で他のどこにもない種類の街だった。当時のアメリカ合衆国南部は、白人と黒人が厳しく分けられていた。だがニューオリンズだけは、かつてフランスとスペインに支配されていた歴史があり、「クレオール」と呼ばれる混血の人々が中産階級として街に住んでいた。
彼らはオペラを歌い、教会のオルガンを弾き、同時にアフリカ系の太鼓のリズムも知っていた。これだけ色々な音楽の伝統が、一つの街で日常的に重なり合う場所は、当時の北米には他にない。
コンゴ広場、ブラスバンド、教会
街の中央にあった「コンゴ広場」では、19世紀後半まで日曜日の午後だけ、アフリカ系奴隷のリズムの集まりが許されていた。同じ街で、白人クレオールはヨーロッパのクラシックを学び、ブラスバンドが葬儀の行進をし、教会では聖歌が響いていた。
普通の街なら混じり合わなかったこれらの音響が、19世紀末のニューオリンズでは1つの街区で隣接していた。1900年頃、コルネット奏者バディ・ボールデンが、ブルース由来の即興とブラスバンドの編成を組み合わせて演奏を始める。これが「ジャズ」と呼ばれる以前の、ジャズの原型だった。
下のトラックは、その30年後にジャズが完成形に達した瞬間。デューク・エリントンの『It Don't Mean a Thing』(1932) が示した「スウィングのないジャズはジャズじゃない」という有名なフレーズは、ニューオリンズが生んだ即興感覚への賛辞でもある。
1922年、ルイ・アームストロングは北へ向かう
1922年、ニューオリンズのトランペット奏者ルイ・アームストロングが、北のシカゴへ列車で出発する。すでにジャズは「アメリカ合衆国南部の音」ではなく、「都市の音」になりつつあった。
ニューオリンズで生まれたジャズは、ミシシッピ川を遡るかのようにシカゴ、ニューヨーク、そしてラジオを通じて世界へ広がっていく。20世紀の半ばまでに、ジャズはアメリカ合衆国の代表的な「文化の輸出品」と呼ばれるまでになった。
下のトラックは、街を出てから45年後にアームストロングが書いた、最も多くの人に知られている歌。ニューオリンズで彼が学んだコルネットの音色が、ここではトランペットでも声でもない、彼自身の歌声として戻ってくる。
100年後、街にいまも残るもの
21世紀のニューオリンズには、いまもジャズの街としての顔が残っている。フレンチ・クォーターを歩けば、夕方からどこかで誰かがコルネットを吹いている。だが、それはもう100年前と同じ音ではない。
ジャズはニューオリンズで生まれた、と言うのは半分正しく、半分間違っている。生まれた瞬間、ジャズはもう街を離れる準備をしていたからだ。混血の街にしか作れない音楽が、世界共通語になるのに、それから50年もかからなかった。
