ズナメニー聖歌
ロシア正教会の伝統的な単旋律聖歌。独自のクリューキ(鉤型)ネウマ譜で記される。
どんな音か
単旋律の声楽で、楽器伴奏は一切ない。複数の男声がユニゾン(同じ旋律を一緒に歌う)またはほぼユニゾンで唱える。音域は低く、胸声が中心で頭声を使うことは少ない。旋律はゆっくりと動き、音節ひとつに複数の音符が割り当てられることも、一つの音符が長く伸ばされることもある。「ズナメニー(znamenny)」はロシア語で「記号の」を意味し、楽譜に使われた「クリューキ(鉤型ネウマ)」という独自の記譜法から名付けられた。石造りの教会で歌われる前提の響きで、残響が声を厚くする。
生まれた背景
988年のキエフ・ルーシのキリスト教化とともにビザンツから導入された聖歌が、スラブ語のテキストと結びつきながら独自の様式を形成した。12〜17世紀にかけてモスクワを中心とするロシア正教会でズナメニー聖歌は唯一の典礼音楽として機能し、「大ズナメニー」「小ズナメニー」などの様式に分化した。17世紀のニコン総主教による典礼改革(1652〜66年)と、これに反対したロシア古儀式派(ラスコール)の分裂が、聖歌の保存に複雑な影響を与えた。古儀式派の共同体はズナメニーの古い形式を今も守り続けている一方、主流の正教会は17世紀以降に西洋多声音楽を取り込んだ。Valaam修道院合唱団はカレリア地方の修道院の伝統を引き継ぐ録音を残している。
聴きどころ
複数の声が同じ旋律を歌うとき、声がぴったり揃うのではなく微妙にずれた部分が生み出す自然な厚みに注目するとよい。旋律が上昇してから下降する大きな弧の動きを一節単位で追うと、ズナメニー特有の「引力」が感じ取れる。石造りの空間の残響を前提にした録音では、音が消えるまでの時間が次の音と重なる。
発展
16世紀イヴァン雷帝期にモスクワが聖歌中心地となり、1652年ニーコン総主教の典礼改革で和声化と西欧的発展が進んだ結果、伝統的ズナメニーは古儀式派の領域に退いた。19-20世紀の正教会音楽運動(モスクワ派)では再評価が進み、ラフマニノフ『晩祷』などの素材として現代音楽にも復活した。ソ連崩壊後は教会音楽の復興と共に再び実演が増えた。
出来事
- 988: キエフ大公ウラジーミル、ロシア改宗
- 11世紀: ズナメニー記譜法成立
- 1652: ニーコン典礼改革、古儀式派分離
- 1915: ラフマニノフ『晩祷』作曲、ズナメニー素材を活用
- 1988: ロシア正教千年祭で聖歌復興本格化
派生・影響
ロシア正教合唱(オビホード)や19世紀以降のロシア合唱音楽全般、特に晩祷曲集の旋法と質感の源泉となった。
音楽的特徴
楽器男声斉唱(無伴奏)
リズム自由リズム、教会スラヴ語、オクトエコス、シラビック
代表アーティスト
- Valaam Monastery Choir
代表曲
Russian Orthodox Vespers (Znamenny) — Valaam Monastery Choir
日本との関係
初めて聴くなら
Valaam Monastery Choirの「ロシアn Orthodox Vespers (Znamenny)」から始めるのがよい。夕べの礼拝(ヴェスパー)の音楽なので、夕方以降に聴くと典礼の意図と一致する。
豆知識
クリューキ(鉤型ネウマ)記譜法は西洋のネウマ記譜法とは独立して発展したロシア固有の記譜体系で、17世紀後半まで音の高さを正確に示さない「相対的」な記譜だったとされる。そのため同じクリューキを別の修道院が別の音程で歌うことがあり、「本来の音程」をめぐる議論は現在も続いている。音楽学者たちが現存する写本を比較研究してきたが、完全な解読は未完成である。
