伝統・民族

ハット・ヴァン

Hát Văn

北部 / ベトナム / 東南アジア · 1500年〜

ベトナムの母神信仰トランス儀礼で歌われる祭祀音楽。

どんな音か

ハット・ヴァンハット・ヴァン)はベトナムの母神信仰「母道(ダオ・マウ、Đạo Mẫu)」の儀礼で歌われる祭祀音楽だ。霊媒師(レン・ドン、lên đồng)がトランス状態に入り、特定の霊的存在(神霊)を体に降ろす儀礼の伴奏として歌われる。三弦の楽器ダン・タム(đàn tam)、月琴に似たダン・グエット(đàn nguyệt)、太鼓、カスタネット系の打楽器が伴奏し、歌は高い声域で速いテンポで進む。各霊的存在に固有の歌があり、その霊が降りてきたとき固有の歌が演奏される——衣装の色も同時に変わる。霊媒師が踊りながら降霊する場面では、歌のテンポが徐々に上がっていく。

生まれた背景

母道信仰は16世紀ごろのベトナム北部で形成されたとされるが、それ以前の土着信仰と中国から伝来した道教・仏教が複合して成立した。母神(ティエン・ヤ・ナ・ア・ナ、Thánh Mẫu)を頂点とする神霊の階層構造を持ち、降霊儀礼は数百年にわたって継承された。フランス植民地期(19世紀後半〜1954年)と社会主義政権期(1954年以降)に「迷信」として禁圧されたが、地下で続けられた。1990年代のドイモイ(刷新)政策後、宗教的寛容が広がるにつれて儀礼は再び公的な場に姿を現した。2016年にユネスコ無形文化遺産に登録された。

聴きどころ

まず歌の「高さ」と「速さ」に慣れるのが最初のステップ。ベトナム語の声調(6つ)が歌の音程に直接反映されているため、旋律が言語のアクセントと切り離せない構造になっている。ダン・グエット(月琴)の速い爪弾きがリズムの骨格を作り、太鼓が段落を打つ役割を担う。儀礼の映像と一緒に聴くと、歌と降霊の動作が連動していることが分かりやすい。

発展

20世紀の社会主義期に「迷信」として弾圧されたが、ドイモイ政策(1986年)以降に復興した。レンドン儀礼そのものが2016年にユネスコ無形文化遺産登録され、ハット・ヴァンも公式に再評価された。

出来事

  • 15世紀: 母神信仰体系化。
  • 1945年: 革命後の弾圧。
  • 1986年: ドイモイで復興。
  • 2014年: ハットヴァン芸術団全国公演。
  • 2016年: 母神信仰レンドン儀礼がユネスコ無形文化遺産代表一覧表に登録。

派生・影響

ベトナム民俗音楽研究の重要な対象、現代ベトナム実験音楽家(グェン・タイン・タムら)のインスピレーション源となる。

音楽的特徴

楽器ダン・グエット、トロン、パン(板)、サオ(笛)、声

リズムトランス誘発の繰り返しリズム、神霊別の旋律型、長時間の連続演奏

代表曲

日本との関係

ベトナム音楽は日本でもカ・チュー(ca trù、室内歌謡)やドン・カ・タイ・トゥ(đờn ca tài tử、南部のアンサンブル)が部分的に紹介されることはあるが、ハット・ヴァンはほとんど知られていない。在日ベトナム人コミュニティでは故郷の宗教文化として知られているが、日本人リスナーへの浸透はほぼない。

初めて聴くなら

ハット・ヴァン Cô Bé Thượng Ngàn」(上山の少女神に捧げる歌)系の音源をYouTubeで検索すると、儀礼映像付きの録音が複数見つかる。降霊の衣装替えと歌の変化が連動する様子を映像で見ながら聴くと、音楽の機能が理解しやすい。

豆知識

母道信仰の「レン・ドン(降霊儀礼)」は一回の儀礼が4〜6時間に及ぶことがあり、その間に複数の神霊が入れ替わり立ち替わり降りてくる。各神霊には固有の衣装・歌・踊り・供物があり、霊媒師は一晩で十数回の衣装替えを行うこともある。儀礼の費用は参加者の寄付で賄われ、現代でも北部ベトナムの農村部では年に数回の大規模儀礼が行われている。

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