グルバーニ・キールタン
シク教の聖典『グル・グラント・サーヒブ』の讃歌を、定められたラーガで歌う典礼音楽。
どんな音か
シク教の聖典グル・グラント・サーヒブの讃歌を、ヒンドゥスターニー古典音楽のラーガ体系で歌う。テンポは中庸から遅く、一つの音階(ラーガ)で長時間を過ごすため、微妙な音程差(シュルティ)が浮き出る。歌い手が複数の場合、リード歌手(シャンタ)とそれを支える合唱が層を作る。伴奏楽器(ハルモニウム、タブラ)は、歌を枠づけるのではなく、歌の時間軸に合わせて流動的に応答する。
生まれた背景
16世紀後半、シク教の創始者グル・ナーナク、および後続のグル(特にグル・アルジャン・デーヴ)が、聖典グル・グラント・サーヒブを編纂した際、ラーガに基づく音楽形式を取り入れた。イスラム侵攻と異なるヒンドゥー信仰の狭間で、シク教は音楽を霊的実践の中核に位置づけた。讃歌は説教ではなく、直接的な瞑想対象。19世紀のパンジャブ地方の政治不安を経て、20世紀のイギリス統治とシク独立運動の中で、kirta音楽は民族的アイデンティティの担い手となった。
聴きどころ
グル・グラント・サーヒブの讃歌の題目(ラーガ名)を見れば、その日の瞑想対象が分かる。例えば『アナンド・サーヒブ』(至福の讃歌)は、特定のラーガで歌われることで、喜びの情感が音響的に再現される。Bhai Harjinder Singh Srinagar Waleの声は、シャンタの伝統を守りながらも、録音技術により鮮明に捉えられている。ハルモニウムのドローン(基音)が波打つような微妙な変化を聴くと、瞑想の深さが増す。
発展
19世紀シーク帝国期にラーギー伝統が制度化され、20世紀には公的な指定演奏者制度が整えられた。20世紀末以降の海外ディアスポラ拡大で、英国、カナダ、米国の大規模グルドゥワーラーがキールタン継承の中心となっている。バーイー・バルディヤール・シン、バーイー・ハルジンダー・シンらの録音が世界的に知られる。
出来事
- 1604: 第5代グル・アルジャンがアーディ・グラントを編纂、ラーガ指定
- 1708: 第10代グル・ゴービンド・シン、グラントを永続的グルと宣言
- 1925: シク・グルドゥワーラ法、ラーギー制度公的化
- 2004: グル・グラント・サーヒブ400周年祭
派生・影響
パンジャーブ民俗音楽、現代パンジャービー・ポップ、近年のシク・スピリチュアル・ロック(スナム・サンガル等)の音楽的源泉。
音楽的特徴
楽器ハルモニウム、タブラ、ディルルバ、サランダ、声
リズム31の指定ラーガ、シャバド詩形、グルムキー文字、礼拝循環
代表アーティスト
- Bhai Harjinder Singh Srinagar Wale
代表曲
Anand Sahib — Bhai Harjinder Singh Srinagar Wale
Mool Mantar — Bhai Harjinder Singh Srinagar Wale
日本との関係
初めて聴くなら
Bhai Harjinder Singh Srinagar Waleの『Mool Mantar』(根本讃詞)。短く、ラーガの本質的な美しさが凝縮されている。その後『Anand Sahib』で、長大な讃歌の流れを経験する。夕焼け時に聴くことを勧める。ラーガの調子が時間帯に応じて変化する(ラーガ体系では朝・昼・夜で異なるラーガを歌う慣習)。
豆知識
グル・グラント・サーヒブに記載される讃歌は、1430曲を超える。各讃歌に指定されたラーガは、インド古典音楽の体系に基づくため、シク信仰者であっても音楽的教養を要する。20世紀から、グルドワーラ(シク教寺院)でのkirtan実践は、より民主的で、儀式的知識がない一般人も参加できる形に簡略化されてきた。
