チャルガ
1990年代のブルガリアの pop-folk。共産主義崩壊後のバルカン全域で同時多発した post-transition pop-folk の一角で、Payner Music と Azis が業界を垂直統合した。
どんな音か
チャルガの音は、初めて聴くとバルカン的な暴力性と甘さを同時に感じさせる。9/8の kyuchek リズムがドラムマシンで打ち込まれ、その上にトルコ寄りの微分音的装飾を持つ電子キーボードが「オリエンタル・キット」音色でメロディを走らせ、女性ボーカルが開いた喉で(ブルガリア女声合唱の発声の直系)、時に叫び、時に囁く。歌詞はブルガリア語だが、隣国トルコ・ルーマニア・セルビアの語彙が混ざり、失恋・浮気・裏切り・パーティー・お金・都市生活といった post-communist 大衆生活の主題を扱う。「vulgar」「kitsch」と繰り返しラベリングされてきたが、そのラベル自体が Payner Music の商業戦略の一部として吸収されてきた——挑発的であることそのものがブランドだ。
生まれた背景
起点は1989年11月10日、Todor Zhivkov 政権が瓦解した瞬間だ。国営 Balkanton レコードが独占していた「認可された民謡」の枠が消え、Sofia のオデオン(路上市場)や国境地帯(トルコ側 Edirne)で、素朴なキーボードによる kyuchek カセットが売れ始めた。当初「Ethno」「Popfolk」と呼ばれたこの音楽は、共産主義時代に貶められていた「チャルガ」(元来ロマ楽団の音楽への蔑称)という語で自称し始めた。1997年、Mitko Payner が南部の Dimitrovgrad で Payner Music を創業。以降、Ivana、Gloria、Preslava、Anelia、Tsvetelina Yaneva、そして最大のスターAzis(1970-)を擁して業界を垂直統合、2001年開局の Planeta HD 衛星チャンネル24時間放送で全国普及した。批評家(国立言語文化学院を含む)は「文化的荒廃」と批判し続けたが、地方の飲食店・結婚式・TV では圧倒的な市場占有率を保持した。
聴きどころ
第一に、リズムの正体。表面は4/4の電子ダンスビートに聞こえるが、装飾層で9/8(kyuchek)や7/8(rachenitsa)のバルカン変拍子が動いていることが多い。第二に、旋法。チャルガの旋律は西洋長短音階ではなく、hijaz(2度が増音程)や nikriz(4度が増音程)といったトルコ/バルカン旋法を使い、この「増2度」の跳躍がオリエンタルな響きの源。第三に、女性ボーカルの発声。開いた喉、鼻腔共鳴、鋭い倍音——これはブルガリア女声合唱(ブルガリア女声合唱)の伝統的発声を大衆音楽用に転用したものだ。第四に、Azis のケース。彼の視覚戦略——女装、大袈裟な化粧、キャンプな演出——は音楽と切り離せない要素で、彼は音を聴くジャンルであると同時に「見るジャンル」でもあることを最も鮮明に体現している。
発展
2000年代、Planeta HD 衛星チャンネルが 24時間チャルガを流し、地方の若年層に「Balkan trap」的な感覚を植え付けた。Azis の《Hop Trop》《Kokoshkata》《Ne Se Targuvame》はキャンプなキッチュとロマ的挑発を混ぜ、彼はブルガリア初のオープンリー・ゲイの大衆スターとしてバルカン LGBTQ+ ポップの分水嶺となった。2010年代、TikTok 世代は Preslava の《Piqna Igra》や Anelia の《Ne Sam Angel》をリバイバルさせ、隣国の turbo-folk (Ceca) や manele (Nicolae Guță) と YouTube アルゴリズム上で相互流入するトランスナショナルなバルカン pop-folk 空間を形成している。批評家からの「vulgarity」批判は継続的で、国立言語文化学院は2010年代半ばまでチャルガをブルガリア文化の代表から公式に除外し続けた。
出来事
- 1989: Zhivkov 体制崩壊、Chalga カセット市場の登場
- 1997: Payner Music 創業(Dimitrovgrad)
- 2001: Planeta HD 衛星チャンネル開局
- 2000年代: Azis《Hop Trop》《Kokoshkata》
- 2010年代: Preslava、Anelia、Tsvetelina Yaneva の TV/YouTube ヒット
- 2020年代: TikTok 経由の隣国 pop-folk との相互流入
派生・影響
セルビアのターボ・フォーク (turbo-folk)、ルーマニアのマネレ (manele)、ギリシャの skyladiko と姉妹関係。ブルガリア女声合唱 (bulgarian-folk-choir) の旋律語彙、バルカン・ブラス (balkan-brass) の kyuchek リズム、トルコ arabesk の唱法と音階を親として持つ。
音楽的特徴
楽器電子キーボード(オリエンタル音色)、ドラムマシン、シンセベース、時にサックス・アコーディオン・zurna(ズルナ)・クラリネットのソロ、ボーカル(ほぼ女性主導、時に男性デュエット)
リズム4/4のシンセ・ダンスビートを土台に、9/8(kyuchek)や7/8(rachenitsa)のバルカン変拍子を混ぜる。トルコ/ロマ由来の augmented second(hijaz/nikriz)音階と微分音的装飾
代表アーティスト
- Azis
- Ivana
- Toni Storaro
- Payner Music
- Anelia
- Preslava
- Tsvetelina Yaneva
代表曲
Yasno mi e — Ivana (1996)
Kokoshkata — Azis (2002)
Hop Trop — Azis (2004)
Ne Se Targuvame — Azis (2007)
Ne Sam Angel — Anelia (2008)
Ludi Godini — Toni Storaro (2009)
その後の代表曲
- Az Sam Az — Anelia (2011)
Piqna Igra — Preslava (2010)
Nevernata — Preslava (2012)
Kolko Mi Lipsvash — Tsvetelina Yaneva (2013)
日本との関係
チャルガの日本での可視性は限られてきたが、二つの回路がある。一つは「ブルガリア女声合唱」を経由するブルガリア女声合唱への関心層で、1990年頃の Grammy 受賞以降、日本のワールドミュージック・シーンには継続的な受容がある。チャルガはその「伝統合唱」の対極、あるいは俗なる分身として位置づけられ、渡辺芳邦らのバルカン専門家が2000-2010年代の紹介で取り上げてきた。もう一つは、Azis を通じたバルカン LGBTQ+ 大衆音楽への関心で、東京のクィア・カルチャー系メディア(TOKYO RAINBOW PRIDE 周辺の音楽紹介)は Azis を「バルカンのフレディ・マーキュリー的存在」として断続的に紹介してきた。ただし、いずれも受容は限定的で、TikTok 時代以降、Azis の《Hop Trop》などが日本のZ世代に部分的に届き始めている段階だ。
初めて聴くなら
まず Azis《Hop Trop》(2004) から。Payner Music の Planeta オフィシャルYouTubeにMV が上がっている。次に Preslava《Piqna Igra》(2010) を通じて、Payner 世代の女性チャルガの「規範形」を耳に入れる。深く入るなら Azis《Kokoshkata》《Ne Se Targuvame》、Anelia《Ne Sam Angel》、Tsvetelina Yaneva《Kolko Mi Lipsvash》、そして Ivana の1990年代スタンダード。バルカン圏の相互流入を確認するなら、隣国 Ceca (turbo-folk) や Nicolae Guță (manele) と YouTube 上で並べて聞くと、共通の音楽的土台が見えてくる。
豆知識
Payner Music の本社があるディミトロヴグラード(Dimitrovgrad)は人口約4万人のブルガリア南部の小都市で、隣接するトルコ・セルビア国境地帯の中継点にあたる。この地理的位置が、チャルガがトルコ arabesk / セルビア turbo-folk との音楽的越境を担ってきた背景に直結している。もう一つ:Azis は2005年、ブルガリアのユーロビジョン国内予選で《Let Me Cry》を歌って2位となり(勝者はDJ Emil)、その後2006年に Mariana Popova と共に《Let Me Cry》をユーロビジョン本戦で歌った。オープンリー・ゲイのロマ系ブルガリア人がユーロビジョン舞台に立った歴史的瞬間として、バルカン LGBTQ+ 大衆音楽史の中で語り継がれている。
