カンボジア古典音楽復興
1979年以降、クメール・ルージュ後のカンボジアで壊滅から再生した古典音楽の運動。
どんな音か
音の中核は三つの合奏形式の再構築 — 宮廷儀礼のピンプアット(石琴ロネアート、金属琴クオン、両面太鼓サンポー、シンバル、笛スラライ)、宮廷の弦楽合奏マホーリー(2弦擦弦楽器トロー、木琴ロネアート、竹笛)、そして最も個人的な形式である盲目の吟遊詩人による弾き語りチャペイ・ダン・ヴェン(長棹2弦リュート)。リズムは自由リズムのスロー・エアと、儀礼的な重い周期構造(4拍・8拍・16拍)が中心で、西洋音楽の均等な拍節感とは異なる時間感覚を持つ。旋律法はアジア古典音楽に共通する7音音階を基本としつつ、ロネアートの木琴の音色は柔らかく、金属打楽器の残響が重層する。歌唱は喉の奥から絞り出す震え(vibrato)を効かせた女性独唱と、寺院音楽の男性声明が対照的に用いられる。
生まれた背景
1975年4月17日、クメール・ルージュがプノンペンを制圧して以降、ポル・ポトの原始農本主義イデオロギー下で「都市文化」「宗教」「知識階級」の全てが虐殺対象となり、王立芸術大学の教員、王立バレエ団の踊り手、寺院僧、地方の吟遊詩人が組織的に殺害された。推定90%の古典音楽家が命を落とし、宮廷の楽譜、楽器、蓄音機録音は焚書または破壊された。生き残ったのはごく少数で、その多くは身分を隠して農村で強制労働した。1979年1月にベトナム軍がクメール・ルージュを追放した後、生存者は自らの記憶だけで滅びかけた曲を紙に書き起こす作業を始めた。1998年に亡命者アーン・チョーン=ポンド(米国養子として11歳で救出された元子供兵)がボストンで非営利団体Cambodian Master Performers Programを設立、2003年にはこれをCambodian Living Arts(CLA)としてカンボジア国内で再組織し、生存師匠と若手世代を無償で繋ぐ枠組みが確立された。同年、王立バレエがUNESCO無形文化遺産に登録された。
聴きどころ
コン・ナイのチャペイ独奏はまず声のかすれと、弦を親指で強く弾いてから瞬時に押さえて減衰させる奏法の対比に耳が向かう。彼の歌はメロディックというよりも語りに近く、伝統的仏典説話と、時折クメール・ルージュ後の記憶が挿入される即興性を持つ。ユン・テアラのピンプアット合奏では、開始の重いサンポー打音の後にロネアート(木琴)がガメラン風の連打で旋律を引き受け、金属琴クオンが和声的な残響を敷き、シンバルが周期の区切りを打つ層構造がクリアに聴こえる。Peace of Angkor Ensembleの現代作品では、伝統合奏の中に西洋の弦楽やピアノが控えめに混じる瞬間があり、伝統と現代の境界線を意識的に問う姿勢が音そのものに現れる。ボチャン・ヒーの現代編成では、ピンプアットの木琴断片がスタジオ・ドラムキットのハイハットと同じ時間軸で鳴る瞬間がある。
発展
1998年にクメール・ルージュ生存者アーン・チョーン=ポンド(米国養子として亡命)がボストンで非営利団体Cambodian Master Performers Programを設立、2003年にはこれをカンボジア国内Cambodian Living Arts(CLA)として再組織し、生存する師匠が若い世代に無償で伝統を伝授する枠組みを構築した。同時期に王立芸術大学(1993年再開)と国立王立バレエ団(2003年UNESCO無形文化遺産登録)の教育プログラムが整備された。コン・ナイは晩年に至るまでフランス・日本・米国のフェスに招かれ、2015年には大阪と東京の国立民族学博物館で公演、2018年には米国国立芸術基金National Heritage Fellowship受賞。若手にはユン・テアラ門下のカンボジア国立フィルの舞台奏者、ボチャン・ヒー(米国育ちのカンボジア系女性歌手、伝統歌謡を現代編成で演奏)、Peace of Angkor Ensembleがおり、2020年代には現代作曲(Him Sopyがピンプアットのための現代作品)にも展開した。
出来事
- 1975-79: クメール・ルージュ期、音楽家90%が死亡
- 1979: ベトナム軍がクメール・ルージュを追放、復興開始
- 1993: 王立芸術大学再開
- 1998: Arn Chorn-Pond、Cambodian Master Performers Program設立
- 2003: Cambodian Living Arts国内再組織、王立バレエUNESCO登録
- 2018: Kong Nay、米国National Heritage Fellowship受賞
派生・影響
現代カンボジア・ポップの一部(SIN Sisamouth世代のクメール・ロック再解釈)、Peace of Angkor Ensembleのフュージョン、アーン・チョーン=ポンドのドキュメンタリー『The Music of Strangers』での国際的紹介。
音楽的特徴
楽器ロネアート・エク(木琴)、ロネアート・トーン、クオン(金属琴)、サンポー(両面太鼓)、スコー・トーン(片面太鼓)、スラライ(縦笛)、チャペイ・ダン・ヴェン(長棹2弦リュート)、トロー(擦弦楽器)、女声独唱と合唱
リズム自由リズムのスロー・エア、儀礼的な重い周期(4拍・8拍・16拍構造)、チャペイ独奏の朗唱リズム
代表アーティスト
- Kong Nay
- Yun Theara
- Arn Chorn-Pond
- Bochan Huy
- Him Sopy
- Peace of Angkor Ensemble
代表曲
Pinpeat Suite for Reamker Dance — Yun Theara (2008)
Chapei Dong Veng Solo (Traditional) — Kong Nay (2010)
Bassac (Story Song) — Kong Nay (2012)
その後の代表曲
Broken Silence (Chapei Duet) — Arn Chorn-Pond (2011)
Full Circle — Bochan Huy (2013)
Nostalgia for Angkor — Peace of Angkor Ensemble (2015)
Concerto for Pinpeat and Orchestra — Him Sopy (2018)
日本との関係
日本におけるカンボジア古典音楽紹介の起点は、1970年代の民族学者・櫻井哲男(大阪大学)や星野紘(国立音楽大学)らによる王立芸術大学交流と、1980年代のカンボジア難民支援活動の文化面での延長にある。2003年国立民族学博物館(みんぱく)の特別展『カンボジア — 復興する伝統』でピンプアット合奏の来日公演が実現、2010年代には東京藝術大学と王立芸術大学の姉妹提携が締結された。コン・ナイは2015年、大阪みんぱくと東京都写真美術館の民族音楽学会議で公演し、日本の民族音楽学者アーカイブに収録された。カンボジア出身の日本在住舞踊家チェット・チャン(1970年代来日)は王立バレエの舞踊譜を独自に伝承し、日本におけるリアムケー(カンボジア版ラーマーヤナ)舞踊の主要な担い手となっている。国際協力機構(JICA)は2003-15年に王立芸術大学の楽器修復事業に予算を投じ、日本人技師が金属琴クオンの製作技術指導を行った。
初めて聴くなら
最初の一曲はコン・ナイのチャペイ独奏(Cambodian Living Arts 2010年録音)。5-10分の独奏で、耳が自然に古典カンボジア音楽の間の取り方に慣れる。次にピンプアット Suite for Reamker Danceのような王立バレエ音源(Peace of Angkor Ensemble 2015年収録)で宮廷合奏の音色を体験、そしてボチャン・ヒー《Full Circle》(2013)で現代編成でのディアスポラ的展開へ広げると、伝統から現代までのつながりが見える。ドキュメンタリーとしてはArn Chorn-Pond出演の《The Music of Strangers: Yo-Yo Ma and the Silk Road Ensemble》(2015)が背景を理解する上で参考になる。書籍としては小島美子『カンボジアの音楽 — 復興への歩み』(2005)が入門書。
豆知識
1975-79年のクメール・ルージュ期、生存に決定的だったのは「盲目」「聾唖」「重度身体障害」といった強制労働不適格の身体条件だった。コン・ナイが幼少時の天然痘で失明していたことが、逆説的に彼の生存を可能にし、結果としてチャペイ・ダン・ヴェンの伝承が保たれた。復興運動の中核組織Cambodian Living Artsは、2007年に本部をシェムリアップ(アンコール遺跡近郊)からプノンペンに移し、2012年にはニューヨーク公演を実施、2015年には国連本部で公演した。宮廷ピンプアットの再構築にあたって最も苦労したのは、口伝の楽曲の完全な喪失ではなく、生存師匠間で伝承していた曲が微妙に異なるバリアントを持つ場合の「どちらが正統か」の合意形成だった。復興は単なる復元ではなく、記憶と記憶の間の折衝そのものである。
