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ポップ

アラベスク

Arabesque

トルコ / 中東 · 1968年〜

1960年代以降のトルコで成立した、アラブ・トルコ古典の旋法をポップに取り入れた大衆音楽。

まずはここから

ひとことで言うと1960年代以降のトルコで成立した、アラブ・トルコ古典の旋法をポップに取り入れた大衆音楽。

まずはこの曲からOrhan GencebayBir Teselli Ver ▶ YouTube

代表的な人Zeki Müren

どんな音か

アラベスク(トルコトルコ・ポップ)は、1960年代末のトルコで成立した、アラブ・エジプトの映画音楽とトルコ古典サナット音楽、そしてアナトリア民謡の泣き節が合流した大衆歌謡だ。核心は「泣きの美学」で、歌唱は喉の奥で振るわせる細やかな装飾(gargara)と、フレーズの終わりで声を絞り込むように消していく息継ぎが特徴。編成はカーヌン(琴)、ウード(短棹リュート)、ケマン(西欧ヴァイオリン)、ダルブッカ(逆さ杯型ドラム)にストリングス・オーケストラを加え、時にサキソフォンやシンセを混ぜる。BPMは60-100のスロー〜ミドル、拍子は4/4か9/8アクサック。歌詞は失恋、貧困、都市への疎外、運命への諦念といったテーマで、Orhan Gencebayが1968年『Bir Teselli Ver』で確立した「都会に出て裏切られた地方出身者の嘆き」という物語構造が、以降40年の基本形となった。

このジャンルを特徴づける代表的なリズムパターン。再生ボタンでループ再生し、下のリズム譜で今どの拍が鳴っているかを確認できます。

カハルワ · 100 BPM

聴きどころ

İbrahim Tatlıses『Beyaz Mendil』(1988)を聴くと、彼の高音の張り方の異様さに気づく。地声から一気にファルセット直前まで跳ね上がる二段構えで、これはアラビア語圏の映画音楽の男性歌唱を、トルコ語の音節構造で書き直した独自の様式だ。Orhan Gencebay『Bir Teselli Ver』(1968)はカーヌンの高音ラインとストリングスが対話する原型的なアレンジで、以降40年のアラベスクの型そのもの。Ferdi Tayfur『Huzurum Kalmadı』(1979)はより低音寄りの朗誦的な歌唱で、労働者の疲弊を直接歌う。Müslüm Gürses『Nilüfer』(1996)は90年代以降のアラベスクポップ化を象徴し、ストリングスがオーケストラ級に厚くなる。

初めて聴くなら

既にDBに収録されているOrhan Gencebay『Bir Teselli Ver』(1968)、İbrahim Tatlıses『Yalan』(1979)、Müslüm Gürses『Affet』(1976)が基本の三点。加えて『Beyaz Mendil』(1988、Tatlıses)、Ferdi Tayfur『Huzurum Kalmadı』(1979)、Müslüm Gürses『Nilüfer』(1996)を聴くと、アラベスクの70年代-90年代の進化が体感できる。深夜、一人で、ヘッドホンで聴くのが本来の作法に近い。歌詞の意味が分からなくても、歌手の息継ぎと泣きの節回しは体に伝わる。

代表アーティスト

  • Zeki Mürenトルコ · 1951年〜1996
  • Orhan Gencebayトルコ · 1966年〜
  • Ferdi Tayfurトルコ · 1968年〜2024
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  • Müslüm Gürsesトルコ · 1968年〜2013
  • İbrahim Tatlısesトルコ · 1970年〜
  • Bülent Ersoyトルコ · 1971年〜
  • Emrahトルコ · 1984年〜

代表曲

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生まれた背景

起点は1968年、Orhan Gencebay(1944年 サムスン生)がエジプト映画音楽のアレンジをトルコ語に翻案した『Bir Teselli Ver』を発表した時期だ。1950-60年代のトルコでは、農村部から都市(特にイスタンブール)への大量の労働移住が進み、gecekondu(一夜建てのバラック)街が首都を取り囲む状況になっていた。

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この移住者たちは、TRT(国営放送)が推奨する西欧化されたポップとも、宮廷伝統のトルコ古典音楽とも異なる、自分たちの疎外感を歌う音楽を必要としていた。アラベスクはそれに直接応えた。決定的な時期は1975-90年で、İbrahim Tatlıses(1952年 シャンルウルファ生の元建設労働者)、Ferdi Tayfur、Müslüm Gürsesが並び立った。Kemalist(世俗共和国主義)体制のTRTは1979-90年、アラベスクを「文化的に劣る音楽」として放送禁止処分にしたが、逆に地下の海賊カセット市場で爆発的に流通、Tatlısesの1980年代の海賊カセット売上は公式レコード会社の統計に載らないまま数千万本と推定された。

日本との関係

アラベスク日本での認知はほぼゼロに近い。1990年代に一部のワールド・ミュージック好きの間で、Tatlısesのカセットが輸入盤店(Tower、HMV)経由で少数流通した記録はあるが、日本の音楽メディアがアラベスクを主題にした特集を組んだ事例は極めて少ない。理由の一つは、アラベスクの「泣きの美学」が日本演歌の情念表現と表面的には似ているように見えて、旋律構造(トルコ・マカーム対日本のヨナ抜き音階)と歌唱様式(gargara対こぶし)が完全に異なるため、意外にも比較が成立しないことだ。日本トルコ音楽を聴く層は、圧倒的にTurkish popかスーフィー音楽に集中する。ただし新大久保、中野の一部のトルコ料理店では、中高年のトルコ人客向けにアラベスクが流れており、日本人の常連客がその音風景に触れる機会は徐々に増えている。

豆知識

1979-90年のTRT(国営放送)によるアラベスク放送禁止は、Kemalistの「文化的近代化」政策の最も強い表現の一つで、公式には「聴衆の耳を退廃的な音から守る」名目だった。しかしこの禁令期間中、Tatlısesは海賊カセットで数千万本を売り、映画に主演し、テレビ番組にも(民間放送解禁の1990年以降)出演し、事実上トルコ最大のスターであり続けた。

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禁令はKemalistの文化政策が大衆の実際の聴取行動と乖離していたことを示した典型例として研究され続けている。İbrahim Tatlısesは1994年、暗殺未遂に遭い頭部を撃たれるが奇跡的に生還、この事件がクルド系マフィアや政治的組織との関係を巡る論争を呼んだ。彼のクルド系出自(シャンルウルファ生)自体、アラベスクの「非トルコ的」なイメージを強化する要素だった。Müslüm Gürses(1953-2013)は生涯を通じて重度のアルコール依存症と鬱を公然と語り、それが彼の音楽の「痛みの信憑性」を増幅させた。彼のライブでは観客がステージにカミソリを投げ、それを歌手が受け止めるという儀式的な瞬間が伝説的だった(実際に何度か彼が負傷している)。

影響・派生で結ばれたジャンル

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アラベスクを中心とした近傍図。中心と直接結ばれるエッジが強調表示されます。

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感触が近い系譜も地域も違うのに、聴くと通じるジャンル

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