アザーン(礼拝の呼び声)
イスラム教の礼拝時刻を告げる、ムアッジンによる声の呼びかけ。旋律的に聴こえるが、これは音楽ではなく信仰実践であり、「歌う」行為とは本質的に区別される。
どんな音か
一声が長く引き伸ばされ、高く上がったあと、ゆっくりと降りてくる。伴奏は何もない。マイクのない時代から、声だけで広場や路地の隅まで届かせるために発達した発声で、共鳴腔を最大限に使ったオープンな声質が特徴だ。フレーズとフレーズの間には静寂があり、その沈黙も含めて呼びかけを構成している。地域によって旋律の輪郭は大きく異なる。メッカ大モスクの詠唱はアラビア語の標準的な抑揚に近く、トルコのジャーミーではオスマン音楽の音程体系(マカーム)が色濃く出て、よりうねりのある旋律になる。エジプトではカイロのラジオ放送を通じて、より装飾的なスタイルが全土に広まった。音楽と宗教実践の境界を意識しながら聴くと、声の使い方の幅に改めて驚かされる。
生まれた背景
アザーンの制度はイスラム教初期、ヒジュラ暦元年前後(西暦622年頃)のメディナに端を発するとされる。ビラール・イブン・ラバーフという解放奴隷の男性が、最初のムアッジン(アザーンを唱える者)に選ばれたと伝わる。彼の声が低く力強かったと記録に残っており、単に声量だけでなく、信仰心と声の質の両方が求められたことがわかる。モスクの尖塔(ミナレット)はそもそも声を遠くまで届かせるための建築装置であり、マイクが普及する以前は、ムアッジンが実際にその上に登って四方に向かって順番に唱えた。20世紀以降は拡声器とラジオ放送が普及し、発声スタイルの地域差は一方で均質化しつつ、一方でエジプトやトルコなど特定の国のスタイルが「標準」として広まるという逆説的な展開をたどった。
聴きどころ
まず一つのフレーズが始まってから終わるまでの「息の長さ」に注目してほしい。訓練されたムアッジンは一つの母音を十数秒以上引き延ばすことがある。次に、アラビア語特有の咽頭音(「ح」や「ع」)が声にどんな質感を与えているかを聴いてみる。そしてフレーズの終わりで声がどう落ちるか、あるいは次のフレーズの冒頭でどこから入るか。旋律は「決まった音程」というよりも、話す言葉のリズムと声の共鳴が織り合わさって生まれるので、音階の分析よりも声そのものの物理として聴くのが近道だ。
発展
中世以降、エジプト・トルコ・北アフリカ・ペルシア・南アジア・東南アジアそれぞれに独自の旋法と様式が発達し、トルコ古典マカーム由来のオスマン様式は東欧バルカンまで広まった。20世紀以降はラウドスピーカーや録音再生による国家標準化も進んだが、地方共同体の口承的多様性も残る。
出来事
- 622: 預言者ムハンマドのメディナ移住期にアザーン制定(伝承)
- 9世紀: マカーム化したアザーン様式が東地中海で発達
- 1979: イスタンブール・スルタンアフメト・モスクのアザーン録音が世界普及
- 2018: イスラム協力機構、サウジ式・トルコ式の地域差を文化遺産として認定
派生・影響
アラブ古典声楽・スーフィー音楽・ナシードに音響的影響を与え、近年は世俗音楽でもサンプル素材として用いられる(感受性ある扱いが必要)。
音楽的特徴
楽器独唱男声(無伴奏)
リズム自由リズム、地域別マカーム、装飾的メリスマ
代表曲
- Adhan (Mecca)
日本との関係
初めて聴くなら
YouTubeでメッカ大モスク(マスジド・アル・ハラーム)のライブ配信から流れるファジュル(夜明け前)のアザーンを聴くと、静寂の中に声が立つ感覚がよくわかる。続いてトルコ・イスタンブールのスルタンアフメト・モスクのアザーンと聴き比べると、同じ言葉でも旋律がまったく異なることに気づく。「Adhan (Mecca)」として配信されている音源はその比較の出発点として使いやすい。
豆知識
「ビラールのアザーン」と呼ばれる最初期のスタイルは、現在のどの地域のアザーンとも完全には一致しない。つまり1,400年の歴史の中でアザーンの旋律は各地で独自に発展してきた。また1977年にボイジャー1号に搭載されたゴールデンレコードに収録された音楽の選定に際し、アザーンは候補に挙がったが最終的には別の音源が選ばれた、という経緯がある(選定委員会の議事録に記録がある)。
