ファドの憂いとカーネーション革命
『サウダーデ』の歌が政治を歌った瞬間
伝統・民族
訳せない一語から始める
ポルトガル語に「サウダーデ」という言葉がある。辞書は「郷愁」「憧憬」「切なさ」などと訳すが、どれも半分しか当たっていない。失われたものへの痛みと、それを失ったこと自体をどこか愛おしむ気持ちが、同じ一語のなかに同居している。二度と戻らないと分かっているものを、それでも待ち続ける——その矛盾した心の状態を、ポルトガル人は昔からこの一語で言い表してきた。
このサウダーデを音にしたものが、ファドである。ファドとは「宿命」を意味するラテン語 fatum から来た言葉で、その名のとおり、抗いようのない運命を歌う。19世紀前半のリスボン、港に近い下町アルファマやモウラリアの路地裏で、船乗りや娼婦や貧しい人々のあいだから生まれたと言われる。ポルトガルギターと呼ばれる12弦のギターが小刻みに震え、そこに一人の歌い手が、失った恋、遠い海、帰らぬ人を、絞り出すように歌う。
海に生きる国だった。大航海時代、この小さな国から男たちは世界の果てへ船出し、その多くは戻らなかった。港で待つ者の胸に降り積もった感情が、そのままファドの土台になっている。だからファドの基調はいつも受け身だ。世界を変えようとはしない。ただ、変えられない世界のなかで、痛みに名前を与える。それがこの音楽の役目だった。長いあいだ、ファドは政治とは無縁の、慰めの歌であるはずだった。
アマリアと、独裁に近すぎた歌
ファドを場末の路地から国民的な芸術へ引き上げた人物が、アマリア・ロドリゲスだ。1920年、リスボンの貧しい家に生まれ、果物売りをしながら歌っていた少女は、やがて20世紀ポルトガルを代表する声になる。彼女が歌うと、ありふれた失恋の文句が、一人の人間の一生をかけた嘆きのように聞こえた。ファドは彼女を通じて世界に知られ、パリでもリオでも東京でも、ポルトガルといえばアマリアの声が思い浮かべられるようになる。
しかし、彼女が輝いた時代は、ポルトガルにとって暗い時代でもあった。1933年から1974年まで、この国はアントニオ・サラザール(1968年以降は後継のマルセロ・カエターノ)が率いる「エスタド・ノヴォ(新国家)」という独裁体制の下にあった。言論は検閲され、秘密警察が市民を監視し、アフリカの植民地では独立戦争が続いていた。この体制は、国民をおとなしくさせておく仕掛けとして「3つのF」を使ったと、後によく皮肉られた。ファド(Fado)、ファティマ(Fátima、カトリックの巡礼地)、フットボル(Futebol、サッカー)。歌い、祈り、球を蹴っているうちは、人は政治を忘れてくれる、というわけだ。
つまり、運命には逆らえないと歌うファドの受け身な性格は、独裁にとって都合がよかった。現状を嘆きこそすれ、変えようとはしない歌。反乱ではなく諦めの歌。だからファドは、それを愛した人々の意思とは関係なく、体制の側に立つ音楽と見なされてしまう。アマリア本人は政治的な歌手ではなく、後に彼女が密かに反体制側を経済的に支えていたことも知られているが、彼女の声はあまりに国民的すぎて、体制の顔の一部にされてしまった。下のトラックは、彼女の代表曲『黒い舟』。ブラジル由来の旋律に乗せて、死んだ恋人がなお海の彼方にいると信じようとする女の歌だ。運命に抗わないこの美しさこそ、まさにファドそのものだった。
1974年4月25日、午前0時20分のラジオ
運命を受け入れるファドの隣で、まったく逆のことを歌い始めた人々がいた。1960年代、コインブラ大学の学生たちを中心に、社会を変えるために歌う「介入の歌(カンサォン・デ・インテルヴェンサォン)」と呼ばれる運動が育っていた。彼らはギター一本で、検閲をかいくぐるために比喩と暗喩を駆使し、自由と平等と兄弟愛を歌った。その中心にいたのが、教師でもあったジョゼ・アフォンソだ。
彼が1971年に発表した『グランドラ、褐色の町』は、一見ただの田舎町を讃える素朴な歌に聞こえる。だが歌詞をよく読むと、そこには「町を治めるのは民衆であり、すべての人が平等な兄弟だ」という、独裁下では危険きわまりないメッセージが込められていた。当然ながら、この曲は放送禁止になった。
そして1974年4月25日、この放送禁止の歌が、歴史を動かす合図になる。植民地戦争と独裁に耐えかねた若い軍人たちが、無血のクーデターを計画していた。決起の合図として選ばれたのは、ラジオから流れる二つの曲だった。前夜の22時55分、まず第一合図として Paulo de Carvalho の『E Depois do Adeus』が流され、部隊に「異常なし、出動可」を伝える。そして4月25日の午前0時20分、あるラジオ局が第二合図として『グランドラ、褐色の町』を放送する。それを聴いた各地の部隊が一斉に動き出し、その日のうちにエスタド・ノヴォは崩れ去った。ほとんど銃弾が撃たれることもなく。市民は兵士の銃口にカーネーションの花を挿し、この革命は「カーネーション革命」と呼ばれることになる。
受け身のファドが40年間なだめてきた国を、たった一曲の禁じられた歌が、一夜で目覚めさせた。歌が慰めではなく、行動の引き金になった瞬間だった。
革命のあとで、ファドは何を歌うか
皮肉なことに、革命の直後、ファドは苦しい立場に立たされた。体制側の音楽と見なされていたせいで、自由になったポルトガルでは一時「独裁の残り香」として敬遠されたのだ。運命を受け入れる歌は、運命を自らの手でつかんだばかりの国には、しばらく重すぎた。
だが、それは長くは続かなかった。ファドは政治から切り離され、もう一度、一人ひとりの心の音楽として聴き直されていく。2000年代、アフリカ・モザンビーク生まれのマリザら新しい世代が、伝統の形を守りながら現代的な感性でファドを歌い、世界のワールドミュージックの舞台へ再び押し上げた。下のトラックは、マリザの『ああ、わが土地の人々よ』。ファドとは何かを歌ったファドであり、路地裏の宿命が21世紀にどう響くかを教えてくれる。2011年、ユネスコはファドを世界無形文化遺産に登録した。
そしてサウダーデは、ポルトガル本国だけのものではなかった。かつて船が結んだ大西洋の島、カーボベルデには、ファドと血のつながったモルナという歌がある。「裸足の歌姫」と呼ばれたセザリア・エヴォラが歌う『Sodade』(サウダーデのクレオール表記)は、その名もずばり、遠く離れた祖国を想う移民の切なさを歌ったものだ。ポルトガル語圏に共通するこの感情は、いくつもの海を越えて、それぞれの土地で少しずつ形を変えながら歌い継がれてきた。
慰めの歌と、武器になった歌。同じ小さな国が、同じ時代に、その両方を生んだ。運命を受け入れる声と、運命に立ち向かう声。ポルトガルの音楽は、人が痛みとどう向き合うかについて、二つのまったく異なる答えを、いまも並べて差し出している。
