演歌は本当に「日本の心」か
戦後の編集された伝統について
3行まとめ
- 演歌という言葉は明治からあるが、私たちが思い浮かべる「日本の心」としての演歌は戦後に編集された別の音楽だ。
- 1960年代の東京で、上京者の郷愁、歌謡曲産業、テレビの力が結びつき、新しい商品としての伝統が作られた。
- 美空ひばりや北島三郎の歌が重く響くのは、それが古いからではなく、近代日本の記憶を背負うように設計されたからだ。
ポップ
「演歌」という言葉はどこから来たのか
「演歌」という言葉は、もともと「演説の歌」を縮めたものだ。文字どおり、自分の主張を声に出して歌うものを指していた。明治時代、1880年代から90年代にかけて生まれた言葉で、街頭芸人——といっても、その正体は政治活動家だった——を指していた。明治政府のもとで合法的に集会を開けなかった彼らは、自分たちの主張を流行りの旋律に乗せて歌い、その歌詞を印刷して街角で売った。最初の演歌は、抗議の歌だったのだ。自由民権運動と結びつき、屋外で歌われ、自分たちを抑え込もうとする政府にまっすぐ向けられていた。
だが、いま誰かに「演歌ってどんな音?」と訊いても、そんな話はまず返ってこない。返ってくるのは、着物の女性かタキシードの男性が歌う、ゆっくりとしたバラードのイメージだ。「こぶし」と呼ばれる重いビブラート、失われた恋と北国の風についての歌詞、年末のテレビの歌番組——そういうものを思い浮かべるだろう。それは、同じ名前を持つまったく別のジャンルだ。両者の隔たりがあまりに大きいため、別物として扱うべきだと論じる研究者さえいる。
1960年代、ジャンルが意図的に「作られる」
1960年の日本は、まだ戦争から立ち直る途中だった。テレビが、新しい中間層の家庭へと広まりつつあった。主に東京を拠点とするレコード業界は、何を売るべきか手探りだった。買い手は何百万もの人々——つい最近まで地方で暮らし、都市の団地に移り住み、故郷を恋しがる人たち——だった。そこで、ふたつの古い音楽の流れが新しい商品へと融合された。ひとつは戦前の「流行歌(りゅうこうか)」、もうひとつは、日本の流行歌と影響を与え合いながら植民地期の朝鮮半島で育った歌謡「トロット」(現在も韓国で親しまれるジャンルだ)。どちらも、ひとつ前の時代の哀感をまとった音だった。都会に出てきた人の胸を懐かしさで締めつける仕掛けを、プロデューサーたちは一つずつ揃えていった。ドレミの音階から四番目(ファ)と七番目(シ)を抜き、五つの音だけで懐かしさを醸す「ヨナ抜き音階」。喉を細かく震わせる重いこぶし。雪国・港・酒・別れを中心とした歌詞。最後に、名前を与えた。古い言葉「演歌」を借り、その中身をそっと別物に置き換えたのだ。
看板となった顔は、終戦直後の1940年代後半からプロとして歌ってきた神童・美空ひばりと、北海道出身の朗々たるバリトン・北島三郎だった。1960年代の終わりには、演歌には誰もが分かる定番曲ができていた。石川さゆりや天童よしみが顔を揃えるのは、さらに次の70年代のことだ。そして、それに付いてきた宣伝文句、つまり「これは日本最古のポピュラー音楽であり、国民の魂の音楽だ」という主張は、作りものだった。嘘というわけではない。ひとつの売り出し戦略だったのだ。
なぜその「発明」は成功したのか
人為的に「発明」された伝統は、たいてい失敗する。後から作られたものだと人は嗅ぎ取り、拒絶するからだ。だが演歌は失敗しなかった。それは二世代にわたって、多くの日本人が「日本人であること」を思うときに思い浮かべるジャンルになった。なぜそうなったのかを理解するには、1965年の新しい都市の聴き手が、実際に何を必要としていたかを見なければならない。彼らは、もう帰ることのない村を後にしていた。親の代には存在しなかった工場やオフィスで働いていた。国そのものがあまりに徹底的に作り変えられていて、過去は手の届かないものに感じられた。
演歌は、彼らがシングルレコード一枚に乗せて持ち歩ける「過去のかたち」を差し出した。歌詞のなかの雪国は、実際に誰かが暮らした雪国ではない。もっと凝縮された、もっと映画的な雪国であり、そこでは悲しみもどこか美しく整えられ、ふるさとへの思いには旋律が与えられていた。美空ひばりの『川の流れのように』は、その様式の極み、演歌として広く受容された後期の代表曲だ。1988年末に録音され、彼女が間質性肺炎で世を去るほんの数か月前、1989年1月にシングルとして世に出た。人生を川になぞらえたこの曲は、もともと、生きることを肯定する応援歌として書かれた。哀歌として受け取られるようになったのは、ひばりの死後のことだ。そして満場一致で、戦後の世紀でもっとも愛される日本の歌になった。だがそれは、まだ40年も経っていない曲なのだ。
「作られた伝統」でも、本物になれる
国民的な「伝統」のほとんどは、実はこの200年ほどのあいだに、特定の政治的役割を果たすために発明されたものだ。スコットランドのタータン柄も、イギリス王室の儀礼(戴冠式やジュビリーなど)も、その例にあたる。歴史家エリック・ホブズボームは、テレンス・レンジャーとの共編著『創られた伝統』のなかでそう論じた。同書がじかに取り上げる例のひとつが、共和制を権威づけるために1880年に制度化されたフランス革命記念日(パリ祭)の祝祭だ。だが、それでこれらが「偽物」になるわけではない。タータンは今もスコットランド人を泣かせる。「ラ・マルセイエーズ」は今も鼓動を速める。演歌は、その日本版の事例研究だ。戦後の東京で、戦後の事情から組み立てられた。それでいて、まぎれもなく日本的でもある。
これを知ると何が変わるのか。変わるのは、主に「誰の手柄になるか」だ。ロマンティックな物語は、演歌を千年の昔まで遡る、途切れることのない日本の魂の声にする。だが正確な物語の主役は、一世代のプロデューサー、作詞家、歌手たちだ。彼らは1960年から75年ごろにかけて、ありあわせの素材から一つの音楽を組み立て、国民に「これこそ自分たちだ」と認めさせた。北島三郎の『まつり』は1984年のシングルだ。なのに、千年前の村祭りのばやしのように聞こえる。作りものでもあり、はるか昔から響いてきたようでもある。そのどちらも、同時に本当なのだ。
作者のひとこと
美空ひばりや北島三郎を聴くと、演歌が古い日本そのものではなく、戦後の移動や郷愁を引き受ける音楽だったことが見えてきます。
