ザジャル(レバノン)
レバノン山岳地帯で発達した即興口承詩歌で、複数の詩人が観衆の前で韻を踏みながら掛け合いを行う対話芸。
どんな音か
ザジャルは詩人たちが即興で詩を作りながら掛け合いをする。観客の前で2〜4人の詩人(ザジャル詩人)が韻を踏んだレバノン方言のアラビア語で詩句を次々と作り、相手の詩に対して切り返す。声は増幅なしの肉声、あるいは単純なマイクだけで届ける。詩人の背後でアルグールやブズーク(ブズーキに近い弦楽器)が短い間奏を挟むことがある。詩の内容は政治批評・恋愛・農村讃歌・宗教的主題まで何でも対象になるが、観客は韻の完成度と機知の速さで詩人を評価する。リズムは詩の格律に従い、歌うというより大きな声で読み上げる朗詠に近い。
生まれた背景
ザジャルはアンダルシア(イスラム支配下のイベリア半島)で発達した口語詩の形式が中東に持ち込まれたものとされ、レバノン山岳地帯では少なくとも18世紀から記録がある。農村共同体の祭りや結婚式の余興として定着し、20世紀になってラジオ放送が始まると、ザジャル対決が人気番組として全国に聴取者を持つようになった。Zaghloul El Damour(ザグルール・エル・ダムール)は放送メディアを通じてザジャルをレバノン国民が共有する文化遺産にした代表的な人物。
聴きどころ
掛け合いの「間」に注目してほしい。一人が長い詩句を読み上げ終えると、観客の反応があり、次の詩人が間を測って切り返す。その待機の沈黙と、新しい詩句が始まった瞬間の反応が、ライブ形式のザジャルの核心。Zaghloul El Damour「Ya Sawty」(1985)は録音音源だが、観客の声援と詩人の息の緊張感が記録されている。
発展
ラジオ・テレビ普及後はマンチアー、ザギルール、アスマール・ハリル兄弟ら著名ザジャール詩人が国民的人気を得た。2014年にユネスコ無形文化遺産に登録された。
出来事
- 1930s: ザイン・シャイーブ全盛期
- 1956: ラジオ・レバノンで定期放送
- 2014: ユネスコ無形文化遺産登録
- 2018: ベイルートで国際ザジャル・フェス
派生・影響
アンダルシア・ムワシャハ、アラブ・タラブ、レバノン・ポップ、ヒップホップとの交差。
音楽的特徴
楽器ダフ、リュート、合唱、独唱
リズム8音節詩、即興対決、合唱応答
代表アーティスト
- Zaghloul El Damour
- Asaad Said
- Moussa Zgheib
代表曲
Zajal Battle — Moussa Zgheib (1995)
Mawal — Asaad Said (1980)
Ya Sawty — Zaghloul El Damour (1985)
Ya Watan — Asaad Said (1985)
Lubnan Bladi — Zaghloul El Damour (1990)
日本との関係
日本でレバノン音楽全般の知名度は低い。ザジャルという形式は学術的な詩歌研究の文脈でわずかに触れられる程度で、一般的なリスナーには届いていない。
初めて聴くなら
Zaghloul El Damour「Ya Sawty」(1985)から入るのが最もわかりやすい。対決形式でなく独詠のスタイルのため、一人の詩人の声と言葉のリズムに集中できる。アラビア語が分からなくても、詩句の末尾が韻を踏んで整う瞬間のリズム的な快感は言語を超えて伝わる。
豆知識
ザジャルの大会は「ムナーザラー」(論争)と呼ばれ、複数のチームが夜を徹して即興詩を競い合うこともある。レバノン内戦(1975〜1990年)の間も山岳地帯の村では続けられていたとされ、政治的に分断された社会の中で詩の場だけが共有される空間として機能した側面があった。
