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伝統・民族

ハリウッド黄金期映画音楽

Hollywood Golden Age Film Score

ロサンゼルス / アメリカ / 北米 · 1933〜1965年

別名: Classical Hollywood Score / Studio Era Film Music / Golden Age Hollywood Scoring

1930-60年代、ウィーンから亡命した後期ロマン主義作曲家たちがハリウッドのスタジオ音楽部で定式化した、大編成×ライトモチーフの映画スコア様式。

どんな音か

ハリウッド黄金期映画音楽の音は、耳を澄ませなくても「豪華」に聴こえる。それは意図された効果だ。80-100名のスタジオ・オーケストラが同時に鳴らす分厚い弦楽と六本編成の金管、そしてハープとチェレスタが加える光沢が、19世紀のワーグナー楽劇の音響空間をそのまま黒白フィルムの中に注入している。コルンゴルトの《ロビン・フッドの冒険》(1938)を聴くと分かるように、主人公・悪役・恋人・場所・心情のそれぞれに固有のライトモチーフが割り当てられ、それらが対位法的に絡み合う。シュタイナー《キング・コング》(1933)以降のスタジオ制映画音楽の原則は「音楽は常に画面のイベントに同期する」であり、これが後の「Mickey Mousing」と呼ばれる逐語的音化技法を生んだ。ハーマン《サイコ》(1960)の弦楽グリッサンドは、この様式の心理的極限を示す。

生まれた背景

決定的だったのは、1933-38年のナチス政権によるオーストリア・ハンガリー系ユダヤ人音楽家追放だ。エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957、ブルノ生、マーラーが「天才児」と呼んだ神童)、マックス・シュタイナー(1888-1971、ウィーン生、ブラームスと個人的な親交、R・シュトラウスとマーラーに師事)、フランツ・ワックスマン(1906-67、ドイツ・ケーニヒスヒュッテ生)、ミクロシュ・ロージャ(1907-95、ブダペスト生)といったウィーン楽壇と中欧の音楽的中枢が、1934年から1940年にかけてハリウッドに一気に集中した。ワーナー・ブラザーズ音楽部長に就任したシュタイナーの《キング・コング》(1933)が、映画音楽を90分間ライトモチーフで一気通貫で書くという規範を作り、1938年のコルンゴルト《ロビン・フッドの冒険》が芸術音楽としての質の基準を引き上げた。ここに、内部人材として初めて頭角を現したバーナード・ハーマン(1911-75、ニューヨーク生、ジュリアード出身)が加わり、様式が完成した。

聴きどころ

第一に、ライトモチーフの逐次的な扱いに耳を澄ませる。主人公が現れると特定のホルンのファンファーレが、悪役が現れると重い低音の金管が、恋人が現れると木管の甘い旋律が、場所が変わると特有の和声色彩が、いちいち画面に対応する。これはワーグナー楽劇の技法をそのまま映画に持ち込んだものだ。第二に、大編成の分厚さ。スタジオ音楽部は当時100名級の常設オーケストラを抱えており、その音圧はコンサートホールと同等かそれ以上だ。第三に、Mickey Mousing —— 誰かが階段を上がると音楽もクレッシェンドし、誰かが倒れるとティンパニが同期する逐語的音化。第四に、心理サスペンス系(ハーマン、ワックスマン)では、特殊効果楽器(テルミン、オンド・マルトノ、電子オルガン、超弱音の弦楽)による「無意識の音」の描写。

発展

1940-50年代、アルフレッド・ニューマン(1900-70、20世紀フォックス音楽部長)、フランツ・ワックスマン(1906-67、ドイツ亡命)、ミクロシュ・ロージャ(1907-95、ハンガリー亡命)、そしてバーナード・ハーマン(1911-75、ニューヨーク生の内部人材)が加わり、様式が円熟した。ハーマンはヒッチコック《めまい》(1958)、《北北西に進路を取れ》(1959)、《サイコ》(1960)で心理描写と映画音楽の関係を書き換え、ロージャは《ベン・ハー》(1959)で歴史大作様式を、ワックスマンは《サンセット大通り》(1950)で心理サスペンス様式を定型化した。1965年前後、スタジオ制の崩壊、ロックン・ロールとポップ楽曲挿入の普及、そしてジェリー・ゴールドスミス/ジョン・バリー世代の台頭により、この様式は歴史上の一時代として閉じた。

出来事

  • 1933: シュタイナー《キング・コング》
  • 1936: コルンゴルト《風雲児アドヴァース》(初のアカデミー作曲賞)
  • 1938: コルンゴルト《ロビン・フッドの冒険》
  • 1939: シュタイナー《風と共に去りぬ》
  • 1950: ワックスマン《サンセット大通り》
  • 1959: ロージャ《ベン・ハー》
  • 1960: ハーマン《サイコ》
  • 1962: ニューマン《西部開拓史》

派生・影響

現代のハリウッド・スコア(ジョン・ウィリアムズ、ハワード・ショア)の直接の親、italian-cinema-scoring(イタリア映画音楽)の兄弟、film-score全般の20世紀前半版、post-romanticismとmusical-expressionismの応用形。

音楽的特徴

楽器大編成スタジオ・オーケストラ(弦五部・木管三管・金管六本編成・パーカッション・ハープ・ピアノ・チェレスタ・時にオンド・マルトノやテルミン)

リズム画面のカット割りにミリ秒単位で同期する変拍子、mickey-mousingと呼ばれる動きの逐語的音化、そして長尺のロマン派主題の反復展開

代表アーティスト

  • エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトオーストリア / アメリカ · 1907年〜1957
  • フランツ・ワックスマンドイツ / アメリカ · 1929年〜1967
  • マックス・シュタイナーオーストリア / アメリカ · 1929年〜1971
  • アルフレッド・ニューマンアメリカ · 1930年〜1970
  • バーナード・ハーマンアメリカ · 1934年〜1975
  • ミクロシュ・ロージャハンガリー / アメリカ · 1934年〜1995

代表曲

  • Ben-Hur - Parade of the Charioteersミクロシュ・ロージャ (1959)
  • King Kong - Main Titleマックス・シュタイナー (1933)
  • The Adventures of Robin Hood - Main Titleエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト (1938)
  • Gone with the Wind - Tara's Themeマックス・シュタイナー (1939)
  • Sea Hawk - Overtureエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト (1940)
  • Spellbound Concertoミクロシュ・ロージャ (1945)
  • Sunset Boulevard - Main Titleフランツ・ワックスマン (1950)
  • Vertigo - Scène d'Amourバーナード・ハーマン (1958)
  • Psycho - The Murder (Shower Scene)バーナード・ハーマン (1960)
  • How the West Was Won - Main Themeアルフレッド・ニューマン (1962)

日本との関係

この項目が日本のリスナーにとって重要なのは、1950-60年代の日本映画音楽が、ハリウッド黄金期スコアを直接の参照点として発達したことだ。早坂文雄(1914-55)は黒澤明《羅生門》(1950)、《七人の侍》(1954)でロージャの歴史大作スコアを日本的に翻案し、伊福部昭(1914-2006)は《ゴジラ》(1954)の主題を、シュタイナー流の重厚な低音金管ライトモチーフで書いた。武満徹《切腹》(1962、小林正樹)の琵琶と管弦楽の対抗編成は、ハーマンの《サイコ》以降の弦楽実験音楽と直接の応答関係にある。日本の映画音楽産業(東宝・松竹・大映の音楽部制)は、ハリウッド・スタジオ音楽部を制度的に模倣した組織で、この模倣は東宝の音楽部が事実上の常設オーケストラを持っていた1960年代前半まで続いた。

初めて聴くなら

まずコルンゴルト《ロビン・フッドの冒険》(1938)の Main Title から。1938年のオリジナル・スコアの近年再演録音(André Previn 指揮/ロンドン交響楽団)で全体像を掴む。次にハーマン《サイコ》(1960)の Prelude と The Murder(シャワー・シーン)、そしてロージャ《ベン・ハー》(1959)の Overture と Parade of the Charioteers。深く入るならシュタイナー《風と共に去りぬ》(1939)、ハーマン《めまい》(1958)全曲、コルンゴルト・ヴァイオリン協奏曲(1945、映画音楽の主題を用いた芸術音楽版)まで。

豆知識

コルンゴルトはオペラ作曲家として11歳でカンタータ《ゴールド》を書き、ウィーンの音楽出版社が奪い合ったほどの神童だった。1934年のハリウッド招聘を「二年契約の腰掛け」として引き受けたが、1938年の Anschluss(ナチス・ドイツによるオーストリア併合)により帰国不能となり、以降ハリウッドで19本の映画音楽を書いた。彼自身は「映画音楽が自分の芸術音楽キャリアを台無しにした」と晩年語ったが、逆説的に彼の映画音楽こそが20世紀後期ロマン主義最後の完成形の一つとなっている。もう一つ:バーナード・ハーマンはヒッチコック《マーニー》(1964)を最後にヒッチコックと決別、以降フランス・トリュフォー、ブライアン・デ・パルマ、そしてマーティン・スコセッシ《タクシードライバー》(1976)で仕事を続け、《タクシードライバー》完成の翌日1975年12月24日にホテルで急逝した。