イラク・マカーム
バグダードを中心に発達したアラブ古典の特異な伝統で、独自の即興体系と固有の伴奏編成チャルギを持つ。
どんな音か
独唱の男声(あるいは女声)が、チャルギと呼ばれる小編成の楽器群——サントゥール(槌で打つ台形の弦楽器)、ジョーザ(弓奏の胡弓に近い楽器)、ダンブラク(細長い素焼きの太鼓)、ルバーブなど——を従えて歌う。声は装飾をかけながら緩やかに展開し、ひとつの楽曲が20〜30分に及ぶことも珍しくない。即興の比率が高く、歌い手は決まった旋律を繰り返すのではなく、マカームと呼ばれる音階体系に従いながらその場で展開を決めていく。声のビブラートは細かく、音の端がゆっくり落ちていく特有の節回しがある。
生まれた背景
バグダードは8世紀のアッバース朝以降、中東の学問・芸術の中心として栄え、ペルシア・ギリシャ・インドの音楽理論が交差した。イラク・マカームはその蓄積の上に発展し、オスマン帝国時代を経て19世紀後半から20世紀前半にかけて現在の形に整理された。歌い手のギルドが曲目と演奏様式を守り、師匠から弟子へ口伝えで受け継がれてきた。1958年の革命以後、宮廷後援が失われ、20世紀後半の政治的混乱が伝承を著しく困難にした。
聴きどころ
最初は声の「節回し」に集中する。長い音をゆっくり上下させながら、最後に音を落とす癖がある。次に、チャルギの楽器群が声の合間にどう応答しているかを追う。サントゥールの金属的な余韻と、ジョーザの引っかかるような弓音が絡む。マカームそのものは「音階」だが、単なるスケールではなく、どの音から始めてどの音で終わるか、どの音に装飾をかけるかという慣習の束だ。
発展
20世紀のラシッド・アル・クンダルチ、ムハンマド・アル・カバンチ、ユスフ・オメルがチャルギ伝統を制度化した。1948年以降のユダヤ系イラク人のイスラエル移住で多くの音楽家が亡命し、伝承の中心がイスラエル(モシェ・エリヤフ・ラリ家系)とイラクに分裂した。フセイン政権末期と2003年戦争以降の文化破壊からの復興は今も続く。
出来事
- 750: アッバース朝バグダードで宮廷音楽形成
- 1932: カイロ・アラブ音楽会議でラシッド・アル・クンダルチ参加
- 1948: ユダヤ系イラク人イスラエル移住
- 2014: イラク・マカームのユネスコ世界文化遺産候補リスト
派生・影響
ペルシア古典、アラブ・タラブ、ユダヤ系シャシュマカム、現代アラブ・ジャズと交差。
音楽的特徴
楽器サンタール、ジョーザ、ターブラ、リク、声
リズム56マカーム、長大即興、フリー拍子と固定拍子の交替
代表アーティスト
- Munir Bashir
代表曲
Improvisations on Iraqi Maqam — Munir Bashir (1971)
日本との関係
初めて聴くなら
ムニル・バシールの『Improvisations on Iraqi Maqam』(1971年)から始める。ウードのソロ即興が中心で、歌が入らない分、マカームの音階構造を音で把握しやすい。静かに、できれば夜に、全体を通して聴く。
